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0623_私の不思議な思い出

 左耳内側の軟骨に、小さなホクロが2つ並んだ男だった。

 私が男の顔をみたのはあとにも先にもこれまでにその一度きりだったのだが、それでも忘れられずにいるのは、たまたま私がそういう精神状態だったことと、そのホクロのせいなのだと思う。

 その日は雨が降っていて、仕事で大きなミスをして、上司も同僚も私を責めることはせずにいて、私は過大な被害妄想をしていた日だった。傘を斜めに差して左肩ばかりが雨に濡れていく、その私に彼は声をかけてきた。

「右肩、濡れていますよ」

 濡れているのは私の左肩である。

「ああ、どうも」

 私は当たり前のようにそっけない返事をした。左の肩が冷たく、意識が向かうそのせいか妙に熱を感じるのだった。

「これ、よかったら使ってください」

 彼は私にハンドタオルを差し出した。奇特な人だと思って私が顔を向けると、急にものすごい距離を詰めてきた。

「泣いているんですか」
「え、ああ、まあ」

 詰められた距離に驚いたけれども、それよりもふわりと香る石鹸の爽やかさに少しだけときめいていた。彼はとてもきれいな顔立ちをしている。一重まぶたにコンプレックスのある私を一瞬にして惨めさと不甲斐なさが襲った。別に彼が何をしたわけではないのに。
 慌てて視線を外すのに、彼の左耳に目を向けた。
 そこに小さなホクロが2つ並んでいたのだった。急に、それが点字かなにかだという気がしてしまい、私はそれに手を伸ばした。私は目が見える。

 急に見ず知らずの女の傘に入ってくる男と、その男の耳に触れようとする女。自分でも、怖っ、と思いながらも私はその手を止められずにいた。その2つの点が無性に可愛らしく思えてしまったのだ。

 人差し指で触れると、そのホクロたちは水滴に包まれた。
 私の指が濡れていたのだ。

「あ、ごめんなさい、可愛らしいホクロだと思ったらつい」
「え、耳にホクロなんてあったんですか、俺。知らなかった」

 彼は左右を間違え、自分の耳のホクロの存在を知らないのだった。私は惚けてしまい、しばらく私の傘のなかにいる彼を見ていた。

「家に帰ったら鏡を見てみることにします。どうもありがとう。お気をつけて」

 そう言うと、ニコリと笑い、私の傘を出ていった。私の手にタオルハンカチを残して。
 私は、少なくとも仕事のミスも、それについて責められることもないために押し寄せる罪悪感と世界で一番使えないだろう自分と思うことがその時ばかり、ぽっかりと私の中から姿を消した。

 別に何があったわけでもないし、思い出にするには不思議な出来事である。

 でも、こんな風に少し落ち込んだ雨の日には決まって思い出す。私の不思議な宝物。


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