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0317_春を大事に

 あのとき確か、彼の手は僅かに震えていたのだった。
 今日と同じように3月も半ばだった。季節外れの暑いくらいの気温で、私の手を取る彼はそれにやられたのか、頬を赤くし、テラテラと輝くように光る汗の粒がいくつも見えていた。タラリとそれが額からこめかみに流れ、やがて繋いでいる私の手にそれが落ちた。
 その汗の粒が、冷たかったのか熱かったのか、私は覚えていないのだった。
 ただ僅かに震える彼の手が私にその心情を伝え、私は泣いていた。私のことを大切だと、世界で一番大事だと、いつだって私の幸せを願っているというその彼の気持ちは伝わっていたのに、彼の口からはそのかけらも聞くことができずにいて、私はわんわんと泣いていた。

 たった一つ、愛していると言ってくれればいいのに。
 たった一つ、世界で一番愛していると言ってくれればそれでいいのに。
 その手で大事に、大切にして、緊張なのか不安なのか汗ばむ全身で、私を愛していると見せてくれているのに、言葉でそれがもらえない。でも私は知っている。言葉にすると、本当になってしまうから、だから、彼は私には決して愛していると言わないのだ。

「ねぇ、愛しているの」
「うん、僕も君が大切だよ」

 繋いでいた手は、彼の手のひらの汗で濡れ、するりと離れていった。繋ぎ直そうとする私を抱き寄せて、強く抱き締めた。
「本当に、大切なんだ」

 そう言って、私からそっと離れて彼は背中を見せて歩いていった。私は追いかけもせず、その全てを理解して、少なくとも理解したつもりになって、ただ、声を上げて泣くだけだった。

 あなたには愛する人がいて、私はそれを知っている。
 それでもよかった。それでもよかったのに、彼は私を大事にこそすれ、愛してはくれなかった。

 こんな風に、春の暑いくらいの日差しは私のあの日を思い出させる。彼の震えた手を思い出して、私は今、夫の手を握る。汗をかかない夫から、粒が落ちることはないから、それが冷たいのか暑いのかは分からない。でも大きくなった私の腹部がとてつもなく熱く感い。

 私を大事に、愛してくれなくてありがとう。
 
 私はこの春に、大事なあなたを置いていく。

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