想像と成長
ヘルプマークをご存知の方は多いだろうが、ヘルプカードをご存知の方はどれくらいいるのだろうか。ヘルプカードは病名や必要な支援、緊急連絡先などを書くことができるカードで、役所はもちろんインターネット上からもダウンロードすることができる。
私はパニックや過呼吸を起こすことがあり、それもごく稀というわけではない。ずっと公共交通機関の利用中に発作が起きたらどうするのかということは考えつつもあまり具体的な解決には至っていなかった。そんな時にヘルプカードの存在を知った。インターネット上でダウンロードし、携帯するようになった。しかし自分で印刷するのでただのコピー用紙になるし、すぐに折れたりしてボロボロになってしまった。そして自閉症と診断されて数ヶ月経った時、ふと思い立って役所に足を運んだ。役所で手渡しで受け取るヘルプカードならもう少し丈夫な素材でできているのではないかと思ったからだ。
役所のエレベーターに乗り、障害福祉課に向かった。もとより知らない人とのコミュニケーションは得意ではないので、入り口で10分ほど佇んだ。誰になんと声をかけていいかわからなかったし、第一そこが正しい入り口なのかどうかもわからなかった。
10分ほどその場で立ち尽くしていると、女性の職員さんが声をかけてくれた。対応待ちですか?と聞いてくださったので、私は手でカードの形を作って「ヘルプカード…」と言った。その女性職員さんは「ヘルプマークですね!おかけになってお待ちください。」と言った。ヘルプマークではないんだけどなと思いつつ言われた通り座って待つことにした。
少しして男性の職員の方が封筒を手にやってきた。封筒からはヘルプマークとヘルプカード、そしてそれぞれの使い方ガイドが出てきた。どうやらヘルプマークもヘルプカードもどちらかのみの配布はしていないらしかった。
ヘルプカードは期待通り丈夫な素材だったし、期せずしてヘルプマークももらえてしまい、まあそれはそれでいいかと思った。
帰路につきヘルプマークについて考えた。自分がつけてもいいものなのか、つけるべきなのかどうか。本来ヘルプマークは診断に関わらず誰でも受け取ることができる。受け取る際に何かを確認されたりもしないし本当にその受け取る個人の判断に委ねられている部分は大きい。だからこそ良心の呵責といえばいいのか、どこか引っ掛かりがあった。確かに自閉症の診断は下っているし電車もバスもしんどくなることが多い。でもヘルプマークを引っ提げて歩くほど誰かの援助が常に必要かというとそうではない。そんな人間がヘルプマークを持っていてもいいのか不安になった。
考えた結果出した結論は、隠し持っておくことだった。常に見える状態にするのではなく、調子の悪い時には見えるようにする。それである程度罪悪感を減らすことができた。現在も変わらず、調子の良い時は見せず調子の悪い時は見えるようにしている。
しかしながら、その葛藤は本当に罪悪感だったのかどうかというところはなんとも言えない。もしかしたら罪悪感かもしれないし、障害受容ができていないことが原因かもしれない。どこまでいっても人間は自分の弱さやハンディキャップを完全に受け入れることは難しい。まして、ヘルプマークのようにそれによって何かを得たり得してしまったりするような場合は特にそうだと思う。物心ついた頃から診断が下りるまで、普通の人間として生きてきた私にとって、私の全てを受け入れることはもはや不可能だと思う。
普通の定義はわからないけれど、人より感覚が過敏で人より疲れやすくて人より苦手なことが多いことは確かだし、その点では普通でないかもしれない。受け入れているつもりでも、いざ現実を突きつけられると目を背けたくなることもあるし、その事実と向き合えないコンディションの時もある。
しかし、ヘルプマークがSOSを出すための道具だとしたら、人とのコミュニケーションが苦手でしんどさを伝えることができない特性をカバーするために持つのは理に適っている。障害者だからというよりは、できないことへの対策として持っていると考えれば、罪悪感を抱くことでもないし障害受容もできているのではないかと思う。実情がどうかはわからないし、深層心理の部分でどうかはわからないけれど、少なくとも自己理解が進んだ結果としてヘルプマークを付けるという結論に至った以上は、一つ進歩と言えるかもしれない。
それに、自分がヘルプマークを付けるようになってからまた一つ世界の見え方が変わった。私自身元々ヘルプマークを付けている人を見かけたら席を譲りましょうと教えられてきたが、あまりヘルプマークを付けた人に席を譲った記憶はないし、実際に譲ってくれる人も少ないように感じる。しかしそれと同じくらい視線は感じる。自分がヘルプマークを付けるようになるまではあまり他人のヘルプマークに目が行くこともなかった気がするが、もしかしたら私も凝視していたことがあったかもしれない。いずれにしてもほとんど無意識だったように思うし、記憶や印象もあまりない。やはり他人事だったことが自分事になって初めて見えてくる世界はあるんだと思う。一見奇異なものでもその実そんなに変わったものでなかったり、それが何かのSOSであったり、そこに隠された事実やメッセージを読み取るには知識や経験が必要なのだと思う。私は自閉症の診断が下りてから、明らかに世界の見え方が変わった。もちろん死ぬまで付き合っていかなければいけないその障害に嫌気が指すことは多いが、全くもって成長や良い変化がなかったわけではないようにも思う。発達障害で良かったなんてことは全く思わないし、そうでない方が良かったとは思うけれど。自分に降りかかる困難や経験が知らないうちに自分を変えていたりする。その困難自体を乗り越えられていなくても、関係のないところで成長していたりする。その成長は決して心が強くなるだけではなくて、自分の知らない世界を覗くことで今まで想像できなかったことを想像するための知識や経験を得ることも含まれるように思う。
想像力は必要だが、想像するにあたっての知識はもっと必要だ。知らない感情を推測することはできない。だから自分自身がたくさんの局面に立ち心の動きを感じ自力でなくてもそれを処理していくことが大切で、それがいつの間にか想像力に変わっていたりするんだと思う。
まあ、というのは後日談としてしか語れないのだけれど。
これにて。2024年5月10日。
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