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それは言えない(頚椎腫瘍 27)

 ある日、病室の隣りの洗面所に行くと、白髪の小柄なおばあちゃんが手を洗っていた。80代で、腰の手術をするために入院していることや、レイコさんという名前は後で知った。

 レイコさんは私に向かって遠慮がちに、この洗面所を使っている理由を言った。
「あっちはせっけんがないんです。こっちはあるから、ここで洗わせてください」
 その口ぶりから、レイコさんはナースステーションの向こう側の病室に入っているのに、わざわざ遠くの洗面所に洗いに来ていることがわかった。
 そんなこと、別に私に断らなくてもいいのに。
「どうぞ、洗ってください」

 せっけんというのは、洗面所に備え付けの液体せっけんのことだ。
「あっちの洗面所にはせっけんがないんですか?」
「さあ、入って行ったことがないので、わからないんですけど」
「?」
 なんだろ、この人。ぼけちゃってるのかしら?

「あっちの洗面所で洗ったことがないんですか?」
「あっちにはせっけんがないから」
「あっちにもあるんじゃありません? たいてい蛇口のところに付いているんだけど。ちゃんと見てみました?」
「さあ?」
 なんとも不思議な会話だ。

 手を洗いながら、レイコさんは声を潜めてこう聞いてきた。
「おたくはヒーターついていますか?」
「病室ですか? ヒーターありますよ。おたくの病室だってあるでしょう?」
「みんなが暑いって言って、切っちゃうんですよ。だから寒くて」
「こっちも暑くなると切ったりしていますよ。1日中つけていると暑くなりますよね?」
「あたしは寒くて」
「だったら、他の人にそう言ってつけてもらえばいいのに」
 そう言うと、レイコさんは子供のようにむきになって言った。
「みんな意地悪するの。暑いからって、つけてくれないんです」

 ナースステーションの向こうの病室は南向きだから、私たちの病室と違って日中はずっと日が当たっている。ヒーターをつけたら暑いかもしれない。
 でも、寒いと言うなら、この人はこっちの(北向きの)病室にいるのかしら?
「病室はどこですか?」
 そう聞いたとたん、レイコさんはぷいとそっぽを向いた。
「それは言えない」
「あら。私、言いつけたりなんかしませんよ。あっちの病室じゃないんですか?」
「それは言えない」
 今まで声を潜めて弱々しく話していたのが嘘のように、きっぱり言い切ると、レイコさんはそれっきり口をつぐんでしまった。

 廊下の、私たちの病室を出たところには冷蔵庫が置いてある。
 背の低い小さい冷蔵庫で、私たちの病室の患者だけが使うようになっている。

 隣りの病室の入口には大型の冷蔵庫が置いてあり、隣りの病室の人たちと、ナースステーションの向こうの病室の人たちが共同で使うことになっている。

 冷蔵庫に物を入れる人は、どこの病院でも同じだと思うが、入れる品物に名前を書いておくことになっていた。
 いつだったか、私たちの冷蔵庫に知らない名前の書かれた物が入っていて、看護師さんに言って持ち主に注意してもらったことがある。
 その後もまた知らない名前の物が入っていたので、だれかに聞くと、あのレイコさんだとわかった。

「何度言っても間違えるんだって」
「間違えるんじゃなくて、わざとやってるの」
 国分寺のお姉様は相変わらず読みが深い。
「あっちの冷蔵庫に入れるのがいやなの」
「どうして?」
「他の人にいじめられると思っているから」
「被害妄想なんじゃない?」

 こっちの冷蔵庫は小さいし、三崎口夫人が大量に持ち込むから(みんなにも分けてくれるので文句は言えないが)、私たちの部屋の分だけで満杯になる。
 ちょうどレイコさんが冷蔵庫の品物を取りに来たときに私が居合わせたので、隣りの大きい冷蔵庫に入れるように注意した。

 レイコさんは冷蔵庫から自分の入れた物を袋ごと出して、中身が落ちないように袋の口を結び直した。
 すぐに終わるだろうとそばに立って見ていたら、レイコさんは私に見張られていると思って緊張したらしく、手がぶるぶる震えてうまく結べなかった。
 私が手伝ってあげれば良かったのだが、手伝うほどのことではないと思って手を貸しそびれてしまった。

 ただでさえ私は背が高いのに、レイコさんは人一倍小柄だ。そばにくっついて立っていたら、どうしても上から見下ろすようになる。
 大きな女が、かよわい小さな老女をいじめているみたいだ。
 そんなことを考えながら、レイコさんが袋の口を結び直すのを待っていた。実際には1分かそこらだろうが、やけに長く感じられた。

 それからまもなく、レイコさんは腰の手術をして回復室に運ばれた。

 その夜、消灯時間が訪れる頃、レイコさんが叫び始めた。麻酔が切れて痛みが出たのだろう。
 ずいぶん大声でわめいているのが、ひと部屋置いた私たちの病室にも聞こえてきた。
「痛いよぉ、痛いよぉ」
 と言い続けている。相当痛いらしい。

 とは言っても、麻酔が切れればいっとき痛くなるのは仕方がない。
 普通は座薬を入れて痛みを抑えるのだが、レイコさんは頭がぼけてしまって、幼児のように辛抱できなくなっているのだろう。

 レイコさんは大声でわめき続け、消灯時間が過ぎて廊下の明かりが消えても延々とわめいていた。まるで咆哮だ。うるさくて眠れたものじゃない。

 例によって、国分寺のお姉様がそっと偵察に出かけたが、しばらくして戻ってくると、
「中井先生が、かがみこんで何かしていた」
 と言う。
「ありゃモルヒネだ」
 国分寺のお姉様は何でもよく知っている。

 それから何日かして、すっかり元気になったレイコさんと廊下ですれ違った。
 レイコさんは1人で歩行器を使って歩いていた。

 個室に入ったレイコさんのところへ話しに行った国分寺のお姉様によると、レイコさんは手術の後、足元から突き上げるような痛みに襲われて、とても我慢できなかったそうだ。
 最初に洗面所で会ったときの印象から、てっきり頭がぼけているのかと思ったが、そうではなかった。
 同情してあげないで悪かった。

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