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カフェ杏奴

 2007年初頭、ネットで偶然「カフェ杏奴(アンヌ)」という名前の喫茶店を見つけた。
 杏奴という文字が、森鴎外の次女の小堀杏奴を想起させた。

 当時私は森茉莉にハマっていて、自分でも文庫本を買って読んだり、図書館で森茉莉全集を借りて読んだりしていた。
 その流れで妹の小堀杏奴のエッセイを読み、弟の森類の生涯について書かれた書物なども読みあさった。

 だからというわけでもないが、ネットで見た「カフェ杏奴」の写真に惹かれて、行ってみたいと思った。
 いつもならそう思っても出無精でなかなか重い腰が上がらないのだが、ちょうどブログ仲間のシップさんが「お茶しませんか?」とメールをくれたので、「カフェ杏奴に行ってみませんか?」と誘って出掛けることにした。

※シップさんは「シニアブログ ぶらっと!」にも書いたが、引退した船乗りで、船に因んだブログネームを付けていた。

 カフェ杏奴は下落合にあった。
 下落合に行ったことはなかったが、この町の名前には心惹かれるものがあった。

 というのは、学生時代に好きだったテレビドラマ「さよなら・今日は」の舞台が下落合であることを知ったからだ。

 それまでも浅丘ルリ子や林隆三や中野良子が演じていた、あの登場人物たちはその後どうしただろう? と思ったり、主題歌が無性に聞きたくなったりしていた。
 私と同じようにあのドラマに惹かれ、下落合に住み着いてしまったChinchikoPapaさんのブログを見つけたら、そこにドラマと下落合との関わりが書かれていた。

 そんなことも手伝って、珈琲を飲みにわざわざ下落合に出かけるのも悪くない、という気がした。

 ランチタイムが終わった頃合を見計らって訪れたので、店内にお客の姿はなく、カウンターとテーブルの間で立ち働いていた杏奴ママが気持ちよく迎えてくれた。
「どこでも、お好きな席にどうぞ」

 シップさんが先に来ているかと思って店内を見回し、地下へ降りる階段からギャラリーも覗いてみたが、まだのようだった。
 そこで、居心地のいい中2階のテーブルについた。

「寒かったらヒーターをつけてください」
 注文を取りに来た杏奴ママが、そばの電気ストーブを指し示して言った。
 少しひやっとするがヒーターをつけるほどではなかった。
「膝掛けもありますから、どうぞ」
 せっかくなので、目の前の椅子に掛けてあった膝掛けを借りることにした。

 珈琲を注文してから、席を立って、階段脇の本棚にどんな本があるか見に行った。
 沼田元気の写真エッセイ集が何冊もあった。

 彼が訳したジャック・タチの「ぼくの伯父さんは、のんきな郵便屋さん」もある。
 タチの「ぼくの伯父さん」という映画は好きだが、この本は知らなかった。

 沼田元気という人についても、名前と、写真を撮る人だということぐらいで、よくは知らなかった。
 名前を知ったのは「watal photo」のワタルさんのブログでだった。

 杏奴ママが珈琲を運んできたので席に戻った。
 注文を取ってからカウンターで豆を挽く音がしていたので、さすがに香り高かった。

 お客が他にいないのを幸いに、上から杏奴ママに声を掛けてお店の名前の由来を聞いてみた。
「鴎外さんのお嬢さんとは何の関係もないんです」
 こちらが鴎外の名前を出す前に、そう切り出されてしまった。
 何度もその質問をされたことがあるのだろう。

 私が自分もアンヌというあだ名で、同じ名前のお店をみつけたので来たと言うと、
「それでわざわざ来てくださったんですか?」
 と嬉しそうに言い、アンヌというあだ名はどうしてついたのかと、逆に聞き返された。

 ちょうどそこへ、ドアを開けてシップさんが登場。
 結局「杏奴」の由来は聞いたような、聞かないような、よくわからないことになってしまった。

 シップさんと1時間ほどお喋りしての帰り際、出口のドアの手前に展覧会のお知らせのハガキ、パンフレット、マスコットのぬいぐるみなどが置かれた小さなテーブルがあり、案内のハガキに小さく印刷された家の写真に目が留まった。

「その展示会はもう終わってしまったんですけど、それは中村彝(つね)のアトリエです。この上の方にあるんです」
 杏奴ママが別のパンフレットの地図を広げて見せた。
「下落合を歩こう」といった感じの手描きの地図のようで、私が手にとったハガキは「目白・下落合の歴史的建物のある散歩道」という写真展の案内状だった。

「中村彝、好き」
 即座にシップさんが反応した。
「中村彝の絵は好きでよく見たよ」

「その写真はChinchikoPapaさんといって、下落合に住んでいる人が撮ったんです。中村彝のアトリエの保存運動もやっていて……」
 思いがけず杏奴ママの口から、例のテレビドラマに魅せられて下落合に住みついてしまった人の名が飛び出した。

「あ、その人、もしかして知っている人かも。ずっと前、下落合を舞台にしたテレビドラマがあったんですけど、私大好きで」
「浅丘ルリ子が出るのでしょ?」
「そうそう。そのことをブログに書いている人じゃありません?」
「そうですよ。ChinchikoPapaさんね」

 へェ、そういうこともしている人だったのね。
 それにはまったく違和感がない。
 杏奴ママがこのドラマを知っていたことも嬉しかった。
 下落合に住んでいるのだから当然というわけでもないだろう。

 家に帰ってから、もらってきた案内状の写真展が開催された「三春堂ギャラリー」を検索してみた。
 三春堂ギャラリーのホームページからリンクしている「三春のときどき通信」に飛んで、中村彝のアトリエ訪問記を読んだ。

 さらに、あちこち拾い読みしている最中に小道さんの名前を発見。
 ん? 小道? どこかで見たことのある名前。
 写真展の案内状にも「案内:小道」とあるけれど、この名前、masaさんのブログ「Kai-Wai 散策」のコメント欄で見たんじゃなかったかしら?

 調べに行ったら、やっぱりそうだった!
 masaさんと小道さんは知り合いだったのか。世間は狭い。

 これまた検索してわかったのだが、実は、masaさんもカフェ杏奴を訪れていた。
 2004年11月のアーカイブを見たら、Kai-Wai散策の常連となっている人たちと、カフェ杏奴で初めて会ったことが書かれていた。
 ちょうど私が九段坂病院で手術を受けていた頃だ。
 常連の人たちは以前からカフェ杏奴をたまり場にしていたのだろう。

 この広いネットの世界でも、類は友を呼ぶというか、目の寄るところには玉も寄るというか……。

 帰り道、シップさんが言った。
「いい店だね。家の近くにあったら、しょっちゅう来るね」

 そう。たしかに、また来たいと思わせる店だった。
 私も電車を2回乗り継いで行くのでなければ……。
 でも、ときどきふらりと珈琲を飲みに行ってもいいと思った。
 杏奴ママとももっと話したい気がした。
 カフェ杏奴はそんな店だった。

 私が訪れたのは2007年だが、その後、2013年に杏奴ママが還暦になったのを機に、下落合の店は閉店して、杏奴ママの故郷の栃木県足利市に、「Cafe 杏奴」として新規にオープンしたそうだ。

 私には「鴎外さんのお嬢さんとは何の関係もないんです」と言ったのに、現在、足利市を紹介しているサイトには、「店名「Cafe杏奴」は、杏奴ママが好きな小説家森鴎外の令嬢命名「小堀杏奴」に感銘のあまり、ちなんだそうです。」と書かれている。
 果たして、どちらが本当か?

 
 
 
 
 

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