「猫の缶詰」で思う日本語

猫の糞の始末をしているとき、ふと思った。

「猫の缶詰」は、「猫用の缶詰(この場合、猫の餌の缶詰)」と「猫の肉が入った缶詰」のどちらの意味にも取れる。しかし、今(西暦2024年)の日本で、「猫の缶詰」と言えば、「猫の餌の缶詰」一択である。逆に(逆に?)、今、この日本で、「牛の缶詰」と聞けば、大抵が「牛の餌の缶詰」ではなく、「牛の肉の缶詰」だと思うはずだ。牛を飼っている者は少ないし、だから、(仮に実在したとしても)「牛の餌の缶詰」など思い浮かぶはずもないからだ。

ところが(ところが?)、ほんの半世紀ほど前のこの日本には、飼い猫に「缶詰の餌」を与える習慣などなかった(多分)。「残飯」だの「おすそ分け」だのが、飼い猫の餌の「主力」であり、足りない分は、猫自身が自前で獲物を調達していたものだ(放し飼いが多かった。サザエさんに追われる「お魚くわえたドラ猫」は、野良猫ではなく、どこかの家の飼い猫である可能性がとても高い)。なので、飼い猫と謂えども痩せていたし、今ほど長生きもしなかった。

つまり(つまり?)、飼い猫に猫専用の缶詰の餌など与えたことのない「高齢者」たちは、「猫の缶詰」と聞けば、高い確率で、一旦は「猫肉の缶詰」を想起し、直ちに「いや、このお方は、猫の餌の缶詰のことを言っておられるのだろう」と考えなおすに違いないのだ。きっと。

そしてまた、近い将来か遠い未来、人造肉が完全に一般化して、牛の肉を食べるなどということが、敵部族の捕虜の頭を開いて、その脳みそを食べるくらいの感覚になった子孫たちにとって、「牛の缶詰」もまた、その意味するところは「牛の餌の缶詰」一択にならないとも限らない。

だが、しかし(だが、しかし?)、この戯書(ざれがき)の目的は、「猫の缶詰」や「牛の缶詰」について語ることではない。日本語が持つ「相手は当然自分と同じ感性/だから、言わなくても察してくれる/だって、同じ日本人なんだから」的な「癖(へき)」に対する危惧を表明したかったのだ。この日本語の「癖」は、まるで、幼児が、その場の大人たちは誰一人として知らない「たかし君」のことを、「きのう、たかしくんがねえ」と話し始めるアレそのまま。

価値観の細分化とか、多様性とか、やんやん言ってるこのご時世、日本語の「きのう、たかしくんがねえ」的な、「聞き手の察し力頼み」な「話法」は、(芸術表現の場以外では)気をつけたり、謹んだり、改めていく必要があるなあ、と、そういうハナシ。

(2024年4月25日 穴藤)

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