「本当の魅力」は、「ニュータイプ」と「SF戦争ギミック」以外にある、という話。

初代『ガンダム』が、今も鑑賞に耐えるのは、「ニュータイプ」だの「SF戦争ギミック(MSや宇宙移民や)」だのという「バカバカしい要素=絵空事」を全部取っ払った後に残る、〔今生きている自分(観客)と「地続き」になっている「人の振る舞い(=或る状況、或る環境、或る人間関係に置かれたときの人間の振る舞い)」〕が満載だからだよ。

初代『ガンダム』の、所謂、「続編」と呼ばれている作品には、大きく2つの流れがあって、一つは「ニュータイプ」というアイディアを追いかけ掘り下げていく流れで、もう一つは、モビルスーツをはじめとする各種「SF戦争ギミック」を精密化したり高度化する流れ。

言い換えると前者は「spiritual」系で、後者は「military」系。で、どっちもそれなりにオモシロイんだけど、最初に書いた「バカバカしい要素=絵空事」の方に「本腰」を入れている作品群なので、「初代」に比べると、鑑賞中に、登場人物たちの振る舞いに対して「お、分かってるねえ!」と唸る機会がものすごく少ない(場合によったら、全然ない)。

もっとぶっちゃけて言ってしまえば、「ニュータイプ」にしても「戦争」にしても、観客は勿論、制作者たちも、誰ひとりとして実際に体験してはいない。要するに、100%想像。作る側も観る側も想像。童貞が作ったアダルトビデオを童貞が鑑賞しているような、独特の「不毛さ」と「バカバカしさ」がそこにはある。だから、あんまり本気になれない。

ところが、機材も人材も時間も足りてない状態でどうにかしなければならないブライトが「置かれた状況」というのは、社会で働く人間にとっては、ものすごく馴染みのある、他人事ではない「実体験」に属する。あるいは、アムロがどんどん「離れて」いってしまうフラウ・ボウの「悲しみ」だってそう。宇宙戦争とかニュータイプとかとはまるで次元の違う「生々しさ」を、この凡庸な21世紀を生きている観客もちゃんと感じ取ることができる(他にも例はいくらでも出せるけど、きりがないのでもうやらない)。

『∀ガンダム』が富野さんの最高傑作だと思えるのは、だから、「初代」の持っている「本当の魅力」を最もよく全面に出しているから。輒ち、『∀』には「ニュータイプ」は出てこないし(そういう概念すら出てこない)、戦争だって、まあ、終始「小競り合い」(武力衝突レベル)。

この『∀』の特徴を、逆向きから言うと、「ニュータイプを匂わせる現象」すら起きないせいで、『∀』は「spiritual系ガンダム好き」からは相手にされないし、いつまで経っても同じ顔ぶれの「地味な」モビルスーツが「地味な」小競り合いを続けているだけなので、「military系ガンダム好き」にもあまり喜ばれない。だが、それでいいのだ。『∀』には「初代」の「本当の魅力」が満載ということは、ニュータイプでも戦争経験者でもない我々が、素直に「実感」や「共感」を覚えられる「登場人物たちの振る舞い・言動・物語」が満載ということだから。

最近お気に入りの自前の「弁当理論」をまたしても持ち出せば、たとえどれほど、「オカズ」が美味かったり珍しかったりしても、肝心の「米(ご飯)」が不味ければ、我々にとってその「弁当」は不味い(そして、もう二度と買わない)。オカルトオタクや軍事オタクは、総じて「米」の美味い不味いに無頓着で、「オカズ」の美味さや目新しさだけで、その「弁当」を評価するが、我々は違う。「米」が美味いなら、「オカズ」は、「梅干し」や、変哲のない「厚焼き玉子」で充分。「平文」に「翻訳」すれば、日常と地続きの人間の有り様が見事に描かれていれば、ダイソレタSFギミックや大戦争は必要ないのだ。例えば、特に何も事件の起きない『海街diary』が美味くてたまらないのは、我々が何よりもまず、「米の美味さ」を求めている者たちだからだ。

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