花瓶と水差し:『古畑任三郎』メモ

単に細かいことが気になる質で、悪気はないし、悪口を言うつもりも全然ないんだけど、『古畑任三郎』の明石家さんまが犯人をやったエピソードのことでちょっと。

(以下ネタバレありますよ。倒叙型なのに)

裁判記録を読み返した古畑が、裁判中の小清水(さんま)の「失言」に気づき、これが事件解決の決め手になる。ここでいう「失言」とは、凶器として使用された「水差し」を、小清水が裁判中に何度も「花瓶」と言ってしまっていること。被害者が、一時的に、水差しを花瓶代わりにして花を生けていたので、それを凶器として使った小清水は、水差しを花瓶だと思ってしまった。凶器として使われたときに水差しは割れ、床に落ちていた花は今泉くんが現場から持ち去ったので、現場検証をした警察の調書にも、凶器は「水差し」となっている。

なにやらごちゃごちゃしているが、要するに、まず、古畑は、凶器として使われた水差しに花が挿してあるのを見たのは被害者と犯人だけだと指摘し、更に、小清水が裁判中に、水差しのことを花瓶と「言いまちがえた」のは、犯行時にそれ(花を挿した水差し)を見たからだと結論づけ、小清水も白旗を上げた、という展開。

で、それはそれでいい。そうなんです。それで事件解決で全然いいんですよ。気になるのは、小清水の「言いまちがい」に気づいたのが、裁判記録を読み返した古畑だけだったという点。ここがずーっと気になって。

いいですか。水差しに花が挿してあったのを見たのは、あのドラマの中の世界では、犯人である小清水と、被害者だけなんですから、裁判で、小清水が「花瓶」発言を繰り返した時、それを聞いた検事なり裁判長なり傍聴人なりが「おや?」となってもおかしくないでしょう? うっかりしたら複数の人間が「あれ? なんで花瓶、花瓶言ってるの?」と思うはずだし、裁判長なり検事なりが、「凶器は花瓶ではなく水差しですよ」と、訂正を促すことすらありえる。つまり、土壇場になって、主人公の警部補一人が気づくっていう展開には、やっぱり無理があるんですなあ。(小池朝雄風)

このエピソードが、最後に視聴者を「さすが、古畑!」と感心させられるのは、視聴者にも〔花瓶のように見える水差し〕をあらかじめ見せているから(犯行の様子を視聴者に見せているから)。だから、小清水の「花瓶」発言も違和感なく「スルー」してしまい、あとで古畑に指摘され、初めて「あ、そういえば、あれは花瓶じゃなくて、水差しだ」と気付き、感心する、という構造になっている。

しかし、今も言ったように、古畑ひとりが「花瓶」の言いまちがい(の重要性)に気づくというのは、どう考えても、都合が良すぎる「不自然」な展開。なぜ、こんな「不自然」な展開を許してしまったのか?

「普段」の古畑は、犯人とタイマン勝負をしているので、まわりに「野次馬」はいない。つまり、古畑とのやりあってる最中に、犯人がやらかした「失言(ミス)」に気づけるチャンスがあるのは古畑ただ一人。だから、裁判所で犯人の「失言(花瓶)」を聞いているたくさんの人たち(裁判官や検事や傍聴人)のことを「勘定に入れ忘れた」のかもしれない。あるいは、無意識のうちに、劇中の彼ら(裁判所で小清水の「花瓶」を聞いていた人たち)を、テレビの視聴者と同じ立場に置いてしまったのかもしれない。

周りの人間達がその「失言」に気付けないことの不自然さに、視聴者が最初(古畑の謎解きを見終わるまで)気付けないのは構わない(特に問題ではない)。なぜなら、犯行の様子を「実際」に目にしてる視聴者は、犯人と同じく、古畑に指摘されるまでは、凶器を「花瓶」だと思っているからだ。つまり、番組初見の視聴者から見れば、古畑以外が犯人の「失言」に気付けない展開に「破綻はない」。そして、このニセの「破綻のなさ」が、逆に、〔古畑以外は誰も「失言」に気付けない〕の原因になってしまっているのかもしれない。つまり、「視聴者が不自然に感じないのなら、それは物語の展開として不自然なことではない」という、一見マトモな、しかし、実は誤った判断が働いたのだ。

何故、誤った判断なのかはハッキリしている。「誤った認識を持たされた視聴者(ここでは水差しを花瓶だと誤解している)が不自然に感じない展開」が輒ち「客観的にも自然な展開」とは限らないからだ。例えば、或る現実世界で、一人だけ大きな誤解(世界は神が作ったとか)をしている人がいるときに、現実世界の方が、その人の大きな誤解に寄り添ってくれると考えるのは馬鹿げている。実際、「誤解」していた視聴者たちも、「謎解き」で認識を正されると、裁判に立ち会った人間が、古畑以外誰も、小清水の「失言」に気付けなかったことの不自然さに気づくことになる。

つまり、あのエピソードは、番組を初めて観る視聴者の中だけで成立する「現実にはありえない出来事」なのだ。

因みに、小清水が不用意に花瓶と言い続けたのは、小清水にとっては、凶器は、製品としては水差しだが、用途としては花瓶だったから。更に、
調書に水差しとあるのは、製品としては水差しなのだから当然で、しかし、現場には、水差しに挿していた花も落ちていたはずだから、警察の方も、あの水差しが花瓶として使われていたことは認識しているはず、と考えていた。つまり、小清水は、凶器を花瓶と呼ぶか水差しと呼ぶかは、誰にとってもどっちでもいいことだと思っていた。まさか今泉くんが、現場から花を持ち去って、小清水以外誰も、あの水差しが花瓶として使われていたことに気付けない状況になっているとは、思いもしなかったのだ。


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