「黙読と雖も声は聞こえている」問題から始まって

統合失調症の症状の一つに「考想化声」というものがある。アタマの中で考えていることが、実際の声(自分自身の声だったり、他人の声だったり、悪魔の声だったり、神の声だったり、宇宙人の声だったり)として聞こえるビョーキだが、これはつまり、人間が、文章をひねりだそうとしたり、哲学的思索にふけったり、あるいは単に、借金の言い訳を考えているときには、アタマの中の声がアタマの中で独り言や対話をしているからこそ起きるヤマイ。

幾何の問題や、料理の盛り付けなどで悩んでいるときは別だが、進路とかオープニングトークとか人生とか恋愛とか人類の行く末なんかについてあれこれを考えているときには、やっぱり、アタマの中で喋っている声が、アタマの中で聞こえている状態になる。

そこで本題。

生まれつき耳の聞こえない人が、哲学の道を歩きながら、人生や人類や知性や世界について思索するとき、そのアタマの中で声は喋ってはいないはずなので、彼らは最初から、書かれた文字{文章}で思索しているに違いない。

と、さっき風呂掃除をしているときに思った。

さらにオマケで考えた。

耳の聞こえる人が、所謂「黙読」を行っているときには、アタマの中で「音読」している某かの声を、アタマの中で聞いているわけだが、生まれつき耳の聞こえいない人は、「黙読」をしていても、アタマの中に「音読」の声が「響かない」はず。すると、耳が聞こえる人の読書と、耳が聞こえない人の読書は、実は、なにか根本的に別物の体験ということになる。耳の聞こえる人は、たとえ黙読していても、実は、今読まれている文字の「音」を「聞く」という体験を同時に行いながら、文章の意味を理解しようとしているのだが、生まれつき耳の聞こえない人たちは、それよりもっと「純粋」か「直接的」に、文字や文章の「意味」を受け取り、読み取っているようだ。

耳の聞こえる人にとっては、〔アタマの中で文字や文章の「音」が聞こえない黙読〕を想像するのは難しいが、もしかしたら、〔中国語は全く読めないけれど、漢字の意味は分かるので、中国語の看板が「読める」とき〕のあの感じに近いのかもしれない。そういうときには確かに、文字列から意味は取れるが、それを「読んで」もアタマの中で声はしない。

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