戦争のバカバカしさの「正体」

我々の立場では、「科学」以外の人間の活動は全て「家事」なので、政治的対立が遂に血を見るまでになった戦争もやはり「家事」。つまり、お互いの家事(料理・育児・掃除など)のやり方が気に食わない嫁と姑がいがみ合ってるのと本質的には変わらないはたから見れば、「こんなどうでもいいことで…」とか思ってしまうところもソックリだし、にもかかわらず、当事者たち(例えば、嫁と姑)にとっては、一歩も引けない大問題であるところも、やっぱりまた、ソックリ。

勿論、ここでの話で一番大事なのは、「嫁姑問題」ではなく、「我々は、今も昔も、たかが家事のやり方ごときで殺し合いをしてきたのだ」という認識

戦争になると現実に人が大勢死ぬので、戦争のことをダイソレタナニゴトカのように思いがちだが、それは因果をひっくり返して認識しているから。戦争それ自体の動機は、無添加洗濯洗剤を使うか、一日中香りが続く洗濯洗剤を使うかで、火花を散らしているレベルと同じ。要するにバカバカしい。しかしバカバカしい理由でうっかり殺してしまったら、その「殺してしまった」という事実が、元々のバカバカしさを見えなくしてしまう。途端に「ダイソレタナニゴトカ」が眼前に現れる。あとは、草臥くたびれ切るまで、ひたすら「殺した⇔殺された」の繰り返し。

「殺し」を選択した知性現象は生命現象に「転落」する。お気に入りのアナログレコード。そこに記録されている音楽の価値と、それを記録している塩化ビニール樹脂の円盤の価値は、種類が違う。我々にとってどちらがより本質的な価値かは明らか。レコードは聴き比べるものであり、ぶつけて壊し合うものではない。

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