『マトリックス』の第4部を観て思った色々

△『マトリックス・レザレクションズ』(吹き替え)Prime Video/2023年9月21日/

凡庸で軽薄な「愛が世界を救う」系のSFファンタジー。

作者が、自分が作ったキャラクターや物語世界を(色々な意味で)「忘れられず」、一旦終わらせた物語を再開したり、そのために、殺したキャラクターを「屁理屈」で生き返らせたりして、「続編」を作り続けてしまうことは、映画に限らず、漫画でも小説でもよくある。この作品もその系譜。作らないほうがよかったのにね、と心底思う。

この手の「続編」では、前作の「ラスボス=最強の敵」が、主人公と「共闘」しがちだけど、本作でも案の定、宿敵「(元)スミス」が、ネオの(一時的な)協力者になって、今回の「共通の敵」である「アナリスト」(時間を止める「ザ・ワールド」的な「無敵」能力を持つ)を「退治」してくれる。
少年ジャンプか!

そもそも『マトリックス』ってこんなにポンコツシリーズだったかなあと思って、同じPrime Videoにあった前作(第三部)の『マトリックス・レボリューションズ』を見返してみたら、 なんと同じだった。ポンコツというのは言い過ぎだけど、生命教信者が生命教信者向けに作った、生命教「信仰」を讃えるだけの映画でしかなかった。輒ち、「知性現象は、人間(生命由来)のものが一番尊い。それ以外の知性現象は、いくら高度で高速で大容量でも、所詮は偽物・出来損ない」という信仰のもとに作られている。

生命教信者向け映画だという点について、もう少し書くと、例えば、機械の親玉(マシン・シティに乗り込んできたネオの取引に応じたり、人間と機械との戦争が終わったあとで、白髪の紳士の姿でマトリックスの予言者を訪ねて来るあのヒト)や、マトリックスを乗っ取った「暴走スミス」が、それぞれ「機械」や「コンピュータプログラム」のはずなのに、考え方や価値観が、当前のように「生命教」に則っているというのが、まさに生命教信者御用達映画の証(というか、症状)。

もう何度何度も書いているけど、「知性現象というものが存在すれば、それは常に生命原理に従う」と考えるのが生命教信者。この映画は生命教信者達によって作られているので、機械の親玉も、スミスも、当然のように、生命原理に従う知性現象になっている。言い換えると、彼らの知性現象は、人間の知性現象のあり方を模倣、もしくは再現になっている。だから、「機械」や「プログラム」が、まるで人間のように、〔自分自身や同類の存続〕や〔版図の維持拡大〕を望んだり願ったりするし、人間との間に「戦争」も起こす。

映画の中では、「人間と機械との戦争」とか、「人間とコンピュータプログラム(スミス)との闘い」のように描かれているので、観客も大半はそう思っているだろうし、うっかりしたら、映画の制作者たちも本気でそう思い込んでいるのかもしれないけれど、実態は、「有機物製の人間」と「金属製の異形な人間」の戦争であり、「有機物製の人間」と「コンピュータプログラム製の人間」の闘いでしかない。要するに、「武装」や「有り様」の違いが「SF的な装い」をしているだけで、単なる「人間と人間」の争いなのだ。生命教の呪縛の典型。

「正体」は人間同士の争いなのに、外面(そとづら)は「人間対機械」や「人間対コンピュータプログラム」になっているので、それで「安心」してしまい(凄いものを描いていると勘違いしてしまい)、肝心要の人間描写や人物造形が、陳腐で凡庸な「お定まりの仕上がり」になっても平気だし、その「退屈さ」にも気が付かない。そうやって作り出される作品を、心ある人々は「子供騙し」と呼ぶ。

その昔『マトリックス三部作』を観終えたあとで、「これなら『アニマトリックス』の中のいくつかのエピソードほうが断然好い」と思ったが、今回の再見で、当時の自分の判断の正しさを再認識した。『マトリックス』は第一部(一作目)が全て「出オチ」映画。残り三作は、ハリウッド製によくある、凡庸なSF戦争ファンタジー。

いずれにせよ、ネオとトリニティが自分たちの命と引換えに人類に平和をもたらしたという第三部の結末に対して、やっぱりネオとトリニティに幸せになってもらいたいなあ、と思って作ったのが、この第四部ってことなんでしょう?

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それにしても、今回、『マトリックス・レボリューションズ』を見返してみて驚いた。ほぼ何も覚えてなかったからだ。見覚えがあったのは、最後の最後に、マシン・シティでネオが停戦(終戦)のための取引を提案する場面くらい。あとは、「初見」かと思うくらい何も覚えてなかった。

なので、今回分かった『マトリックス・トリロジー』の顛末を、少しメモしておく。

①人間と機械が戦争をしている。(開戦の理由や様子は『アニマトリックス』で描かれている)
②機械は人間集団を発電機(エネルギー源)として使っている。
③機械は発電機(人間集団)を生かし続けるために「マトリックス」を運用している。
④「マトリックス」の用務員(エージェント)であるスミスの「暴走」が始まる。
⑤暴走したスミスは、マシン・シティを乗っ取る勢いを見せる。
⑥ネオだけがスミスの暴走を止められる。
⑦機械は、ネオがスミスの暴走の止めたら人間との戦争をやめる、とネオに約束する。
⑧ネオが(予言通り)スミスに負けて「上書き」され、スミス(の複製)になる。
⑨機械がネオの体から(元ネオの)スミスに「入り込み」、暴走スミスたちを一掃する。
⑩人間と機械の戦争は終わり、スミスが駆除された「マトリックス」は「正常」に戻る。

因みに、預言者は、わざとスミスに「上書き」されることで、「ネオの体を経由して、機械が〔ウィルス駆除プログラム的なもの〕を暴走スミスに送り込み、暴走スミス群を一掃する」作戦の道筋を作った。

付記:【第三部で引っかかったこと】

序盤で、「地下鉄駅」に「閉じ込めれらた」ネオを助けるために、トリニティが「フランス人」の眉間に銃口をあてて「取り引き」を持ちかける。曰く、「フランス人」がすぐにネオを解放するか(ネオの居場所を教えるか)、それとも、ここでみんな(トリニティ、「フランス人」、モーフィアスなど)で死ぬか、と。しかし、これは「取り引き」にならない。なぜなら、自分の命に代えてもネオを取り戻したいトリニティは、絶対に「フランス人」を殺せないからだ。「フランス人」を殺したら、ネオは永遠に解放されない(見つからない)。

もし、ネオの解放に「フランス人」の協力なり了解なりが必要ないなら、「取り引き」なんか持ちかけずに、さっさと「フランス人」を殺せばいい、というか、そもそも、「フランス人」のところに、あんな無策状態でノコノコやって来る必要がない。

…なんて言うんだろ。ネオを助けるためならトリニティは自分の命は惜しくない→つまり、「フランス人」を殺したら自分も殺されるけど、そんなの気にしない→だから、「フランス人」を殺すと言うトリニティの言葉はただの脅しじゃない!それは、そのとおりなんだけど、だからと言って、トリニティが自分の命と引き換えに「フランス人」を殺しても、それで自動的にネオが解放されるわけではないので、「自分の命に代えてもネオを助ける」というトリニティの「決意・覚悟」は、この取引では用をなさない。

ネオが解放される条件は、トリニティが命を差し出さないこと、つまり、トリニティが「フランス人」を殺さないこと。そして、何よりも(自分の命よりも)トリニティが望んでいるが「ネオの解放」なのだから、逆に、自分の命に代えてもトリニティは「フランス人」を殺せないのだ。

これが取引になっているかのように(制作者や観客が)勘違いしているのは、「ネオが解放されないくらいなら、私(トリニティ)はお前(「フランス人」)を道連れに死んでやる」というふうにしか考えていないからか? しかし、繰り返すが、その場合、トリニティの決断(というか短気?)によって、ネオも死ぬ(永遠に「地下鉄駅」から解放されない)ことになる。
トリニティ、何がしたいの?

要するに、この場面は、たくさんの銃口を突きつけられた絶体絶命の状態で、恋のために命がけの取引を持ち出すかっこいいボンテージ女という「雰囲気」だけのもの。そもそも、最初にトリニティたちが、入り口を守る手下たちを皆殺しにして、「フランス人」が潜んでいる「会員制クラブ」に乗り込んでくる場面自体が、その後の展開(結局、あっさり敵に包囲されて銃を取り挙げられ、「フランス人」に「取引き(代わりに預言者の目をもってこい)」を持ちかけられることになる)を考えると、ただただ、銃撃戦を見せたいだけのもので、つまりは「雰囲気」。

でもまあ、「恋する女がイカれたことをする」という文脈でこの場面は展開しているから、銃を眉間に突きつけられた当の「フランス人」が、「この女(トリニティ)、こんなの全然、取引にもなんにもなってないし、俺を殺したら、ネオも助からないことすら分かってないんじゃないか? やべえなあ…」とビビって、トリニティの要求に応じるところを描きたかったのかもしれないけどね。

つまり、ネオを道連れにしたトリニティの「無理心中」に巻き込まれるのはまっぴらだと思った「フランス人」が、トリニティの要求に応じるという理屈。

でも、そうすると、トリニティの言い分を聞き入れてた「フランス人」は、どのタイミングでトリニティの銃口から解放されたのだろう? どう考えても「地下鉄」に乗り込む直前まで「人質」になっていたはず。「フランス人」に銃口を突きつけたトリニティが、周囲を警戒しながら、「地下鉄」乗り場まで移動している姿(画)は滑稽。

【救済案】
①さっさとネオを引き渡さないならもうお前(「フランス人」)に用はない。私達(トリニティ)の仲間が「自力」でネオを見つけ出すから、お前(「フランス人」)はここで私達(トリニティたち)と心中しろ、という理屈なら、トリニティが持ちかけた「取引」は実効性がある?

②「フランス人」が「扉の鍵」のような存在で、「フランス人」を葬り去れば「自動的」にネオのところに行けるか、ネオが解放されるという「仕組み」になっているのなら、トリニティが持ちかけた「取引」は実効性がある?

…いや、どちらでもなさそうなんだよね。

①の場合。「フランス人」がいなくなっても、トリニティの仲間が「自力」でどうにかするから、トリニティは「フランス人」は殺せる、というのなら、そもそもあの場面で「フランス人」を殺す必要も脅す必要もない。一旦、「フランス人」の取引に応じたふりをして、悠然とあの場所から立ち去り、「自力」でネオを探し出せばいいだけ。そうすれば、トリニティもモーフィアスもセラフもみんな生きている状態で、ネオに会える。

②の場合。今度は「フランス人」の側が、取引などできる立場ではないことになる。「ネオを解放してほしかったら、預言者の目をもってこい」と言った時点で、ネオの為なら命も惜しくないトリニティに撃ち殺されて終わり。

やっぱり、あの場面は、ただただ、トリニティが「見栄を切る(歌舞伎用語)」ためだけにあるとしか思えない。というか、『マトリックス』シリーズって、この手の〔必然性も説得力もない、ただただ「カッコイイ場面のためのカッコイイ場面」〕だらけなんだよね。それがまた、軽薄でポンコツな印象を与える。

ついでのついでに書けば、キアヌの主演映画で、第一作目がすごく面白くて、でもその続編は「あれ?」ってのが、『マトリックス』以外にもう一つある。そう、『ジョン・ウィック』。いい人なんだろな、キアヌ。続編、断れないんだろうなあ。キアヌ主演のSF/ファンタジー系映画で言えば、『コンスタンティン』が一番好きだけど、これもうっかり続編なんか作ったら、「あれ?」ってなるに決まってるから、気をつけて。

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