「拷問」としての「文春砲」

所謂「文春砲」は、実質、時代劇に出てくる「拷問」(石を抱かせるとか、焼きごてを皮膚に当てるとか、五寸釘を足の指に刺すとか)になっている。目をつけられた人間は、お白洲(裁判)で白黒つけられる前に、牢屋敷で痛めつけられ、一生残る肉体的精神的経済的ダメージを受ける。あとで無実・無罪とわかって放免されたとしても、「拷問」で受けた様々な「損害」については何の補償もない。「拷問」された側はひたすら「ヤラレ損」。だがその一方で「拷問」をする側には何のリスクもない。だから、「気楽」に「拷問」をやる。

或いは、時代劇に出てくる「拷問」の方が、一応、公的権力が手続きに則って行うので「まだマシ」なのかもしれない。「文春砲」の「拷問」は、三流文士が立ち上げた私設の営利団体が営利目的で、謂わば「自分勝手に」やってることだからだ。

最近のこの手の「拷問」を目の当たりにして、「週刊誌がチカラを持ちすぎた」と言う人が時々いるけれど、それは違う。週刊誌のチカラは前と同じ。「文春砲」が「拷問」を実践できるのは、今の社会に、国家権力以外の「暴力装置」が存在するから。輒ちSNS。

国家権力の「暴力装置」には、(あからさまな独裁国家でない限りは)とりあえず、規則や規律や或る種の「慎み深さ」がある。構成員も限定されている(公務員)。一方、「SNS式暴力装置」にはそのようなものは何もない。「構成員」は(潜在的に)小学生から譫妄老人までの全人類。当然「バカ問題」の因子となる連中が大量に含まれている。言い直すと、「SNS式暴力装置」には責任者がいない上に、構成員の心づもりも「街角インタビュー」程度なので、制御が効かないし、予測もつかない。

その危険極まりない「SNS式暴力装置」の起動ボタンを無自覚に押しているのが週刊誌。これが「文春砲」の「威力」の正体。(因みに、週刊誌が停止ボタンを押すことはできない。SNS式暴力装置に停止ボタンはないから。「燃料切れ」になるのを待つしかない。)

別の喩えを思いついた。

「炎上」に因んで、「有名人の醜聞」で一発当てようとする週刊誌を「放火犯」に喩えると、SNS出現以前にはボヤ程度の火事しか起こせなかったのが、SNS出現後には、同じ「やり方」で街をまるごと焼き尽くす大火災が起きてしまう。「放火犯」の「腕前」が上がったわけではない。環境が変わっただけ。カラカラに乾いたカリフォルニアやオーストラリアの森で、ウカウカ焚き火でもすれば、BBCが報道するような大規模森林火災になる。アレと同じ仕組み。

未だに、青空駐車場の車のタイヤにライターで火をつけているつもりなのが「文春砲」の中の人。しかし、SNS社会が実現してしまった現在、彼らが「放火」しているのは、乾燥しきったオーストラリアの森。どうせ焼くなら、もっと焼き甲斐のあるものを焼けばいいのに、といつも思う。

2024年3月17日 穴藤


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