『ザ・ファブル』(漫画)を3巻まで読んだ

『ザ・ファブル』の1〜3巻がeBooks Japanで無料だったので読んだ。岡田准一の映画版も愉しかったが、原作漫画も愉しく読めた(と言っても3巻までしか読んでないけど)。あと、劇中で主人公が観ている、ジャッカル富岡の出演している恋愛(?)ドラマがヒドくていイイ。主人公じゃないけど、ほんとに続きが気になる。

映画の『ザ・ファブル』は(そして、勿論きっと原作漫画の『ザ・ファブル』も)、殺しの天才である主人公が殺しをやらないお話なんだけど、アレを観て、「あっ」と気づいたのは、「殺す」と「殺さない」って、「強さ」の順位が実は逆だな、と。

ここから余談。

ウルトラマンや仮面ライダーなどから始まって、ガンダムだ、ドラゴンボールだ、あとナンダカンダと、とにかく、ガチの対決モノのお話は、主人公が敵を「殺す」ことで勝利を掴むという表現を繰り返し繰り返し描いてきたので、(各作品は実はそんなことは、直接には一言も言ってないのだが)「究極の強さとは相手(敵対者)を殺せる能力だ」と、「みんな」が勘違いしてしまった。

フィクションに限らない。戦国武将たちの首の取り合いとか、過去の世界大戦の趨勢とか、そういうものの「語られ方」も、やっぱり、相手よりも多く殺せた方が「強い」になっている。

その種の勘違いは、言葉のニュアンスにも影響を与えていて、例えば、「とどめを刺す」とか「息の根を止める」とかっていうのは、要するに相手(敵対者・競合者・獲物)を殺すってことの婉曲表現えんきょくひょうげんなんだけど、これらの言葉には何となく、自分のほうが「強い」から「とどめを刺せる」とか「息の根を止められる」風のニュアンスがある。でも違う。本当に強ければ、とどめを刺す必要も、息の根を止める必要もない。微妙に弱いから(あるいは当てにならない強さしかないから)、この機会を逃すまいとして、とどめを刺したり、息の根を止めたりするのだ。

殺すだけなら、相手を屋上に呼び出して突き落とせばいいだけだ、と、昔、前田日明まえだあきらも言ってたし、大型金庫に閉じ込めて外から鍵をかければ、おばあちゃんにだって憎い男を殺せる(『コロンボ』:「死者のメッセージ」)。殺しの手段は腕力や武術に限らないのだ。毒から核ミサイルまで、気に入らないヤツを殺す方法は無数に存在する。そして、屋上からの突き落としや、金庫内への閉じ込めや、毒殺や、核攻撃で、邪魔者や敵対者を葬り去った人々を評して、「あの人は強いねえ」とは誰も言わない(精神的には或る意味で強いのかもしれないけど)。

映画版の『ザ・ファブル』に話を戻すと、「殺しOK」の冒頭の暗殺場面と、「殺しNG」のクライマックスの救出劇では、主人公の「苦労ぶり」がまるで違う。アレを見て、「殺し」って、「強さ」ではなく、或る種の「武器」に過ぎないって気付かされる。相手を無力化する目的で相手を「殺す」ってことは、即効性の毒針で相手をチクッとやるのと本質的に違わないんじゃないか。ただの「卑怯」なんじゃないか、と。これって、いろいろな武術の達人たちが昔から難しい顔で言ったり書いたりしてきた問題に通じることなんだろうね。


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