そもそも、両手を組み合わせていれば必ず「不安」なのか?

岡田斗司夫の〔ランバ・ラルの初登場場面の解説〕(昔の動画)に違和感を覚えたので、また余計なことを書く。

岡田斗司夫に言わせると、ザンジバルの座席に腰を下ろしたランバ・ラルが膝の上で両手を組み合わせているのは、彼が不安を感じているかららしい。たしか、ソロモン戦のドズルの解説のときにも同じようなことを言っていた。

そうだろうか?

腰を下ろした〔軍人や謀略家や政治家〕が膝の上や机の上で両手を組み合わせているのは、むしろ、「さーて、どうしてやろうか」などと思案しながら、自身の能力を発揮する機会を「満喫している」表現の場合もあるだろう。

『ガンダム』でキャラクターが両手を組み合わせている場面を、今適当に思い出してみると、ア・バオア・クー戦で「ふふふ、圧倒的じゃないか我軍は」とほくそ笑むときのギレン、第5話「大気圏突入」でガンダムのコクピットで待機しているときのアムロ、そして、今言った、ホワイトベースを発見したときのランバ・ラルと、ソロモン戦が始まった直後のドズル。アムロはともかく、他のオッサン三人は皆、「企んでる」「目論んでる」「意気込んでいる」という感じで、要するに心情的には「不安」どころか「愉しんでいる」に近い。「いや、表面的には愉しんでいるつもりでも、その心理の深層は不安で、だから無意識の防御態勢として、手を組み合わせているんだ」とか言うやつがいるかも知れないけど、ここで問題にしたいのは、そういう百年前の心理学な与太話ではない。

そもそも、それぞれの場面で両手を組み合わせているキャラクターたちが、そこでその時に「不安」を感じていなければならない〔物語的な必然〕が存在しないだろう、と言いたいのだ。

やるべきことを前にして「緊張感」が高まっているというのならあるだろう。しかし、それは「不安」ではない。不安は「自信のなさ」の産物。ギレンもドズルもランバ・ラルも、そしてもしかしたらアムロでさえ、例に挙げた場面では皆、或る意味「自信満々」だ。特にアムロが両手を組み合わせてコクピットに収まっている姿は、たしかに「不安を押し隠している」とも取れるが、「少し慣れたらすぐに調子に乗って格好をつけようとする」思春期の男子にありがちな「イキった姿」にも見える。見ようによっては「今度こそシャアに一泡吹かせててやるぞ」感が全開(「これで何度目なんだ?アムロ!」)。

岡田斗司夫が繰り返す、「両手を組み合わせたり、腕を組んだりするのは、絶対に不安の現れ」が、自前の説なのか、どこかの専門家の受け売りなのかは知らない。しかし、一般的には「そういう人もいる」「そういう場合もある」程度のこと。「絶対」ではない。そして、岡田斗司夫が内面の「不安」を指摘する〔あの場面のランバ・ラル〕は、物語展開上の彼の役回りから判断すれば、不安を抱えているはずなどないのだ。

あの場面のランバ・ラルが不安を感じていると、それは物語進行的にはただの「雑音」になる。百歩譲って、あの場面のランバ・ラル「本人」が「本当は」不安を感じていたとしても、作者はそれを観客に提示すべきではない。それは、あの場面で、〔チンポジ(by 笑い飯)を修正するランバ・ラルの描写〕を入れるくらい、物語にとっては邪魔で余計なことだからだ(だから、ラルがうっかりチンポジを修正したら、その場面はカットすべきである)。あの場面は〔女連れのボスが率いる得体の知れないプロ集団が、戦争関係なしでただただガルマの仇のホワイトベースを葬り去るためだけに地球に降りてきたこと〕を描写するためのものだ。そんな場面で、早速仇を見つけたボスが「不安」を覚えているなんて描写を入れる必要がどこにある? 戦闘を仕掛けるかどうかの選択権はこちら側(ランバ・ラル側)にあるのに、何を不安に思う? あるとしたら、むしろ高揚だろう。

〔状況や立場を込みにして〕人の感情というものを考えたときに、〔あの場面のランバ・ラルは不安を感じている〕という解釈は「不自然」極まりない。それは、例えば、三歳の我が子を亡くした母親がその葬式の席で不自然に横を向いている姿を指摘して、「あれは笑っているのを見られないようにしているのだ」と解釈するくらい「不自然」なのだ。もちろん、そういうことはある。しかし、その場合は、その物語には、その「不自然」さに対する「説明責任」が発生する。その物語には〔型通りではない裏〕があることを示さなければならない。

ランバ・ラルに話を戻せば、だから、あの場面のランバ・ラルが本当に不安を感じているのなら(そして、両手を組み合わせるという描写で、それを観客に示したのなら)、ランバ・ラルに関しては、それに見合うだけの「意外な」展開がその後に描かれなければならない。が、実際にはそんなことはなかった(アルテイシアとの再会は、この意味での「意外」とはベツモノ)。ランバ・ラルというキャラクターは、死ぬまで、〔戦場に愛人を連れてくるような自信満々の「ただの」プロの軍人〕として描かれた。

もしかしたら、岡田斗司夫は「不安」という感情がよく分からないのかもしれない(言葉の定義の話ではなく、実感として)。大仕事を前にして腕の見せ所と奮い立つときや、ノルカソルカの駆け引きに集中しているときに人が感じる「緊張感を伴う高揚感」と、単なる自信のなさからくる所謂「不安」の区別がつかないのかもしれない。なんせ、(自称)サイコパスだから。であるなら、ランバ・ラルの組んだ両手を「不安の現れ」と解釈するのは、サイコパスなオタク好みの「フカヨミのためのフカヨミ」以外の何ものでもない。

そうだね、今回の違和感は、「人は不安を感じると、両手を組み合わせたり、腕組みをしたりする」と岡田斗司夫がなぜか思い込んでいることがそもそもの原因だよね。そういう人が全然いないと言ってるのではない。そういう人もいるだろうけど、そうじゃない人もかなりいるのは、ちょっと周りに訊いたり、自分自身のことを振り返ってみれば、簡単にわかることだ。自信満々で気分が高揚しているときに、両手を組み合わせたり、腕を組んだりする人もいるし、集中している時・集中したい時にそうする人もいる。フラットな気分のときに、ただなんとなく、気がついたらそうしている人もかなりいる。「両手を組み合わせていたら・腕を組んでいたら、その人は絶対に不安を感じている」と無邪気に言い切ってしまうのは、やっぱり、〔他人の感情をいろいろに想像し、即座に感じ取る〕能力が低いからじゃないのかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?