誰かもう、チューリング博士の墓前に報告した?

人間の文章や発言も、所詮は、どこかのタイミングで聞いたり読んだりしたものの〔「口真似」とそのアレンジ〕に過ぎない。その点で、囲碁将棋の「指し手」と何も変わらない。どちらも「状況に最適と思われるもの選ぶ」という意味では同じことをしている。

ChatGPTが人間よりも素早く「整った文・良い文・わかりやすい文」を「書ける」のは、AlphaGo(囲碁用AI)が普通の人間よりも素早く「良い指し手」を「思いつける」のと同じ「からくり」なので、それほど不思議がったり不気味がったりする必要はないのだ。

それよりも重要なのは、人間の思考に不可欠な「言語活動」というものの「正体」が、囲碁将棋の〔好手悪手の選択〕と本質的に同じものだという気づきの方。人間の精神活動の「本体」とでもいうべき「言語活動」が、存外他愛もないものだったという現実を、今、我々は突きつけられているのだが、一体どれだけの人間にその自覚があるだろう?

仕事を奪われるとかどうとか、そういう下世話な話も大事には違いないけど、人間が自分たちの専売特許のように思い込んでいた「高度な精神活動」が、生命ですらない〔比較的単純な機械〕によって、巧みに「口真似」されている意味をよく考えたほうがいい。例えば、誰がどう言い訳しても、「チューリングテスト」(1950)は既に「突破」されているのだから。

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