自殺が「不快」な理由の半分

自殺が忌み嫌われている理由の半分くらいは、それがまだ「野糞のぐそ」の段階だからだよ。社会生活に於いて不快に思えるはずの他人の排便行為が、今の時代、そこまで「苦」にならないのは、誰もが決まった場所で用を足してくれるから。つまり、便所という「社会的にそれをスルことが許され、事後の始末も簡便な場所」が存在するから。

でも、「自殺できる場所(自殺所)」は、未だに社会的に決められてないし、許されてないし、認められてないし、受け入れられていもいないので、「切羽詰まった人たち」「にっちもさっちも行かなくなった人たち」が、やむを得ずそこらへんに「野糞」をしてしまい、うっかり現場に居合わせた人たちが「うわ〜勘弁して」「おいおいおい!」という目に遭う。

実際の野糞は野原に限らない。マンションの普段使われていない屋内型非常階段などでもよく見かける。要するに、「人目につかないけれど、誰でも出入りできる場所」でソレは実行される。しかしそんな場所はいくらでもある。だから、「どこでやられてしまうかわからない」という「恐怖」がソレにはあり、しかも、厄介なことに、その始末は「行為者」以外の者がしなければならない(原状回復を望む限り)。「自殺」もこれと同じ。

身内や知り合いや愛する人の「自殺」であっても、「悲しみ」や「驚き」の周りに「不快」や「怒り」の「もや」が漂う。そんな「靄」が漂うのは、今の「自殺」がまだ、「野糞」だからだよ。ちゃんと「便所(自殺所)」でしてもらえたら、「悲しみ」や「驚き」はそのままで、この「靄」だけが消える。

でも、この地球を支配する生命教信仰者たちにとって、「自殺所」は「背信」「背徳」以外のナニモノでもないから、当分、実現は無理だね。

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