戦争が「愚かな行為」である本当の理由

『人間の終わり』にも書いてあるとおり、人間は「生命現象依存型知性現象」なので、その本質は知性現象。生命現象はただの「媒体」。

ところが戦争は、この生命現象をドーニカスルことで、知性現象を操ろうとする手段。要するに、人間が生命現象に依存していることを「悪用」するのだ。

人間は最早、チェスも将棋も囲碁も、人工知能には勝てない。しかし人間の世界チャンピオンには「奥の手」がある。いざとなったら、対戦相手である人工知能の電源プラグを抜けばいい。そうすれば、とりあえず、みっともない敗北だけは避けられる。この「電源プラグを抜く」という行為が、戦争が〔生命現象依存型知性現象である人間〕に対して行っている「仕打ち」。

戦争がもたらす「弊害・害悪」に関しては、「対人間」ではなく、人工知能同士の「対局」を想像した方がいい。

戦争とは、人工知能同士の対局で、相手の人工知能の電源プラグを抜き合っているようなもの。この場合の確実な大問題は、プラグの引き抜き合戦で勝敗を決めている限り、人工知能の「棋力」はいつまで経っても向上しないことだ。〔知性現象同士の対立〕を戦争で「解決・決着」し続ける人間の〔知性現象としての能力の向上〕についても、全く同じことが言える。

一般に、知性現象としての能力が高いほうが、強力な兵器や巧妙な作戦などを生み出せるので、戦争は人間の〔知性現象としての能力〕の向上に「貢献」しているという意見は受け付けない。それは違う。

例えば、マンハッタン計画で招集されたのは、最も喧嘩の強い科学者たちではないし、科学者たちの殴り合いや殺し合いが、研究開発を前進させて、リトルボーイやファットマンを完成させたわけでもない。

動機は動機に過ぎない。女の子にキャーキャー言われたいと思って始めたギターで世界的なギタリストになったあの人を、世界的なギタリストに押し上げたのは、女の子にもてたいという欲望(動機)ではなく、弛まぬ鍛錬と才能である。

因みに、戦争は、それでもまだ、〔対立する双方〕に〔相手の「電源プラグを抜く」可能性〕が与えられているが、例えば、地動説を唱えて教会に殺されかけたガリレオの逸話のように、電源プラグを抜く側(教会)と抜かれる側(市民ガリレオ)が、一方的に決まっている場合も、人間の歴史にはいくらでも存在する。

いずれにせよ、戦争を頂点とする〔人間が生命現象に依存していることを「悪用」して、知性現象に干渉する行為〕は、「人間同士で殺し合うから」とか「何の罪もない人が大勢死ぬから」とか「物凄く後悔するから」とか「代々受け継がれる怨恨を生むから」という理由で「愚かな行為」なのではなく、そもそも、〔知性現象としての存在を自ら放棄している〕という、文字通りの意味で「愚かな行為」なのだ(知性現象ではなくなっているのだから、それは愚かに違いないのだ)。

言ってしまえば、戦争は「失禁我慢比べ」や「脱糞我慢比べ」である。論争している2人の科学者のどちらが先に我慢しきれなくなって、失禁もしくは脱糞したかで、論争に決着がつくようでは、科学の未来は真っ暗。 戦争はそんな「愚かな」ことを、国家規模、国際規模でやっている。

反対側から言った方がわかりやすいかな。ガンマ線バーストの「直撃」も平気な知性現象を仮定すると、彼らにとっての戦争は、光にとっての音速みたいなもので、「あるにはあるみたいだけど、だから何?」なわけ。

2024年2月29日 穴藤

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