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痩せすぎを非難しすぎじゃないか

キム・カーダシアンが、2月末にインスタグラムに投稿した写真が物議をかもしていますね。

両手で包み込めてしまいそうなほど、ウエストをコルセットで締めたキムの姿に、「これが美しさだと思っているのなら、彼女にはヘルプが必要だ」「ぞっとする!社会や自分の娘に何を伝えているんだか」「バカバカしい。鏡持ってんの?」といったコメントが多く寄せられていました。

痩せていなくてもいい。太っていてもいい。女性の体型に多様性が認められるようになり、どんな体型であっても自分を愛する「セルフラブ」の考えが広がっていく反面、痩せすぎている体型、露出の多い服装やタイトな服装には批判が集まりやすくなっているように感じます。

そこでふと思うのは、体系の多様性を認めるとは一体何なんだろうかということ。

キム・カーダシアンはMETガラでマリリンモンローのドレスを着用するために、たった3週間で7kgも減量したことでも世間を騒がせました。影響力の強い彼女の、固定概念的な女性らしいイメージや過度なダイエット経験は、一般の女性たちの健康リスクにも繋がるものなので、批判されるのも一理あります。ですが、多様性を認めるとは個人の意思を尊重することではないでしょうか。

胸の形を良く見せることに注力したデザインのブラジャーや、ウエストを締め付けるコルセット、足をきゅっと引き締めるハイヒール…。
こういったファッションアイテムは、女性を締め付けるものとしてみなされるようになり、シャネルは当時女性の必需品とされていたコルセットを不要なものとみなし、市場ではノンワイヤーのブラジャーが徐々に注目を集めるようになりました。日本では、2019年に#KoToo運動が起こり、職場でのハイヒールやパンプスの着用強制に対して抗議の声があがっていましたね。

ですが、どのファッションアイテムを身に着けるかは社会的な固定概念や世論に縛られるべきものではなく、自分が着たいか着たくないかで選ぶべきもの。女性が自由を手にしていく過程で辿る道は、ブラジャーを外し、コルセットを脱ぎ去り、ハイヒールを脱ぐことではありません。これらのファッションアイテムは飽くまでフェミニスト運動を促進させるためのシンボル。大切なことは何に開放され、何に縛られるかを自分の意思で選べるようになることではないでしょうか。

ファッションアイテムだけではなく、体型も同じこと。その人がどんな人なのか、その人が生活習慣を変えなければいけないかどうかは、体型では判断できません

体型が大きい人に対して、「だらしない」「自己管理が足りていない」といった声が寄せられる反面、痩せている人には「食べているのか」「運動しすぎじゃないか」「病院に行ったほうがいいんじゃないか」等、たくさんの心配が寄せられます。

ですが、太っている人も痩せている人も遺伝子的な理由で体型が変えられない人もいます。たとえ驚くような体の大きさだったとしても、驚くような細さだったとしても、です。処方薬で食欲が増進・減退が起こり、大きく体型が変わる人もいます。

もちろん、過食症や拒食症で悩んでいる人もいますが、健康を害するまで食生活が乱れてしまう背景には、自分を受け入れてくれる場所がないという孤独感が存在しています。いわゆる普通の食べ方ができない人に「痩せなさい」「食べなさい」と言ったところで、それができないから困っているわけです。「恥ずかしい」「鏡見えてる?」なんて嫌味を言われたって、余計に心が虚しくなってしまいます。

苦しくなるほど食べたりや過剰に痩せることで、分かってもらえない苦しさや心の奥底に隠れた孤独を紛らわそうとするのが摂食障害。そのため、良かれと思ってのアドバイスや止めるためのお説教は、悪循環に繋がることもしばしば。

もし相手の行動に問題があると思っても、注目すべきは行動ではなく、その行動に至った心です。外側からみてバカバカしいと思うことでさえ、本人にとっては大切なことかもしれません。苦しみを誤魔化して生き伸びるために必要な行動かもしれないし、次のステップに成長していく段階にいるのかもしれません。本当の問題はファッションや体形、そしてSNSの写真からは見えないのです。

目立つのがセルライトであっても筋肉であっても骨であっても、ブラジャーをつけてもつけなくても、コルセットをつけてもつけなくても、そこに優劣や正誤をつけないこと

過度なダイエットに繋がりそうなメディアや芸能人の発信を疑問視することそのものは社会に染みついてきた固定概念が変わってきている証拠。ですが、もしそのメディアを見て傷つく人がいる、健康を害してしまう人がいる、と思って声をあげるのであれば、相手を正そうとするのではなく、相手を尊重する視点を大切にしたいですね。

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