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伝える難しさ

私は大学1年生の時、一橋新聞部に所属していました。

事実を、ありのままに、誰が読んでも同じ意味に捉えられるように、主観を完全に排除して記事を書く。

これが本当に難しくて、何回も校正をかけられて、どうして直されたのかもわからないことが多いのが悔しくて、何本も記事を書いてました。

デュルケームだったかシンメルだったか、人間は世界を色眼鏡を通して見ていると言う。社会常識や経験などによって自然と培われた思考の枠組みを排しては物事を捉えられない。こうして書いている言葉でさえ、文化に裏打ちされた「色のついた」ものなのだ。

そんな「言葉」を使って無色透明な記事を書くことの難しさと言ったら...

でも、実は主観を伝えるこういう文章の方が難しいのかもしれない。

私が「これは赤くて綺麗だね。」と言っても、相手にとって、それが赤なのか紅なのか朱なのか垢なのか、綺麗なのかケバいのかグロいのか私には知る由もない。さらには私が言ったその言葉に興味を持って耳を傾けてくれていたのかさえわからない。

「伝わる」ためには相手に関心を持ってもらった上で、相手の常識に沿って言葉を選ぶ必要があると思うのです。

つまり、相手の立場に立つ。


こんな大層なことできるのか、と問われれば無理としか言いようがないのだけれども、少しでも思いやりがある文章を書けたらと思いつつ今日もキーボードを叩きます。

いろいろあって辞めてしまった新聞部だけど、今ならもう少し納得のいく記事が書けるかしら。


以上サドルに跨って考えた取り留めのない独り言でした☺︎

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