抽象と具体続編—不諦の抽象家

 以前、抽象と具体の話を軽くして、その後にアイドルを例にその話を応用した文章を書いた。しかし、そこで語っていなかったことで書きたいことが思い浮かんだので、続編を書いてみる。
 愛、というものがあるけれどどうやら人によってはこれは同種の域を超えるものであるらしい。つまり、ヒト、犬、猫、魚(魚を犬や猫と同列のカテゴリーに置くのはカテゴリーミステイクなのではないかと言う心の声が聞こえたのだけど、この点はここでは飛ばして、後で解消したい)などの生き物の区分がある中で、ヒトはヒトを愛し、犬は犬を愛すというのが「同種の愛」になるが、ヒトと犬の愛、すなわち、「異種の愛」があるらしい。ご立派に名前もついていて、ズーフィリア(動物性愛)と呼ばれている。ズーフィリアに関する論考を目的としたものではないので、そこまで調べていないのだが、ズーフィリアの思想を持っているひとをズー(動物性愛者)というらしい。彼らは、動物をパートナーとして考え、時にはセクシュアリティな関係も持つらしい。こういう人たちをテーマにした本*1もある。私は、そしておそらく多くの人は「同種の愛」だけを考えてきたと思う。しかし、同種というのはヒトという大きな区分で括った時に説明がつくことであって、具体的に見ていくとヒトはそれぞれ違う。だから、同種ではあるけれど、同じではないことを了解して我々は愛を育んできたはずである。そして、今やズーフィリアの誕生を前にして、「同種の愛」が全てではないことを認めざるを得なくなった。「異種の愛」もあることを認めざるを得なくなった。そうした厳然の事実を前にして、愛の再考の機会に接した。もちろん、ここでズーフィリアは例外、外れ値と切り捨てることもできる。ここで愛は同種の愛なのだと割り切った抽象化もできる。でも私はそうする人を「諦めの抽象家」と名づける。逆に、私は「不諦の抽象家」になりたい。外れ値と見做されてしまう人に共感は抱けないかもしれない(というかあまり共感を抱く必要性を感じない)けど、そういう人の存在を無視しない人になりたい。ズーフィリアの人も含めて愛を考えるならば、やっぱり心(目に見えてない部分)になるのじゃないか。見た目はキッカケにはなるかもしれないけど、結局、愛は心でつくりあげるものなんじゃないか。そして、動物の側に心はあるか、あるとしても動物側がヒト側の愛を拒否する場合もあるんじゃないかという問いには、動物の側に心があるかは永久的な問題で、現状私はないという判断ができないという立場だし、動物側がヒト側の愛を否定する場合については、ヒトとヒトの場合と同様に、解決できる問題なのじゃないか、つまり、愛が結びつくかは両者次第(外野が結びついている、いないを決められない)だと考えている。
 思うに、具体と抽象は、具体が既存の抽象を破壊するところに一つの面白さがある。しかし、抽象が強固であればあるほど生半可の具体では壊せない。抽象がしっかりしていれば、言い換えれば、その抽象が「不諦の抽象家」によって形作られ、磨かれ、仕上げられた抽象ならば、抽象を破壊しようと浅はかな人間が考えて作った具体では抽象は壊されないように私は思う。

末注

*1:濱野ちひろ『聖なるズー』(集英社、2019年)。濱野さんは自身の痛々しい恋愛経験から、愛について向き合うようになり、京都大学の博士課程に進学して愛について考え、その時にこの本を出版されたらしい。


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