読むのが遅い(3)

辞書引き労働者

さて、子どもは育つ環境を選べません。生活実感しかない大人にしか出会わない‥‥ということも、ままありえます。子供にすれば、大変不幸なことではないかと思うのですが、生活実感しかない大人の周りには似たような大人しか集まらない傾向があるようです。

日本語を学ぶプロセスでそういう生育環境で育った子どもは、「わからない言葉があったら辞書を引く」ことを必須の学習ステップであるかのように信じ込まされています。そして、英語学習のときにも同じ目に遭います。

「知らない単語があったら辞書で調べなさい。」

繰り返しになりますが、辞書を引くことの効用を私は否定するつもりはありません。むしろ外国語に触れる際に辞書を引くことは時に重要なことでもあると思っています。辞書には(時には首をかしげざるをえないような記述もありますが)まあまあ優れた先輩の智慧が載っているわけで、それを借りることで解決する問題もあります。特にプロの翻訳の現場などで、いい訳語が思い浮かばないときには、たった数語のために内外の何冊もの辞書を引きくらべ、何種類もの参考文献にあたることも珍しくはありません。そこまでではないにしても、英語を読んでいて、これは何を言っているんだろうと考えこんだ時、たった1語を調べるだけで全体が鮮明になるという経験は皆さんにもあるのではないでしょうか?

辞書引き奨励に関して私が問題だと思うのは、言語習得の初期段階にある子どもに「辞書を引こう」と言うだけで、辞書という書物の使い方をほとんど教えないことです。「ここの意味は‥‥」と日本語訳を示すことが常態化していた、これまで(今は違うと思いたい!)の日本の英語教育の現場で、このような形で辞書の導入をすると「訳語を見つける」ことで「辞書を引いた」と考える子どもが多くなってしまうのは必然ではないかと思うのです。これは私の妄想なのでしょうかね?

読めるから訳せるんだけどな‥‥

現在、私が主たる仕事場にしている関西では、特に「英語を読む」イコール「日本語に訳す」という考え方をする子どもが、本当に悲しいほど多いように感じます。(これが私個人の限定的な印象ならいいのですが。)

英文の内容がわからない学生に、いちから丁寧に説明をして、あれやこれやと細かい具体例も挙げて、誤解の例も挙げると、学生が「なるほど、そういうことだったんですね。やっとわかりました。」と言ってくれて、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、「で、先生、この文の意味は結局どうなりますか?」と問い返されてガックリ‥‥なんてのは、関西の英語教員アルアルじゃないかと思います。

当たり前のことですが、頭の中で日本語に訳して、その日本語を理解しようとすると、3種類の問題が発生します。その1は遅読になること。その2は英語を英語の順に理解しないクセがつくこと。その3は同じ訳語になる英語は意味も同じだと考えてしまうこと。

断っておきますが、日本語を第一言語とする子どもが、英語習得の最初期の段階で日本語を媒介にして英語を理解することは悪いことではありませんし、むしろ必要なことでしょう。(とはいえ、英語と日本語の意味の分節は必ずしも一致しないので、この媒介は日本語のみである必要はなく、英語や身体やモノに頼ることも必要な場合があります。たとえば、鼻の下の部分全体を掌で覆って the lip と言ったりすることで、「唇」と訳したのでは伝えられない英語の意味を理解させることもできます。)

訳すことが読むことと同義になってしまった《不健康なからだ》の子どもたちは、知らない単語があるとどうしても気になります。当然「理解」も遅くなりますが、実はそもそもこの「理解」の中身も問題なのです。

《読む=訳す》病

話し手の考えた順に理解しないでいると、時にはわかるものもわからなくなることがあります。また、訳語で理解するというのは実は無理があって、ことばの意味もわからなくなる恐れがあります。

ことばの意味というのは本来、そのことばの使い方(用法)のことです。たとえば、「あんな素敵な彼氏にめぐり逢えて幸せだね。」と言う時には  You are lucky. とは言いますが、You are happy. とは言いません。give birth to と cause はどちらも「生じさせる」と訳しますが、She gave birth to twins last night. とは言っても、She caused twins last night. とは言いません。lucky と happy は使い方が違いますし、give birth to と cause も用法が違うわけです。日本語の訳例が一部重なるからといって、用法まで重なるとは限りませんが、訳語で理解する子どもたちは、日本語訳例が一部重なるなら用法も同じように重なると考えてしまう危険性が非常に高いです。これを《読む=訳す》病と呼ぶことにしましょう。上の例からも、この病は英語で何かを発信する時にも影響してくることが容易に想像できるのではないでしょうか。

英語のことばを日本語に訳すとなれば、そもそも訳語なんて無数にあります。一人称単数の I だって、時と場合で「私は」「僕が」「あたいはさ」「オラ」「お父さんはな」「先生は」と千変万化。その星の数ほどもある訳語の中からひとつだけ選んで覚えようとするのが無駄とは言いませんが、危ないことをしていることは確かです。たとえば、もしイカツイ鬼軍曹みたいな顔をした中年アメリカ人男性に「ねえ、あたいはさ〜」と鼻にかかった甘えた声で話しかけられたらいかがでしょう? 彼の日本語の先生は同棲相手の日本人女性だけという事情を知らなければ、「もしかして G?」(この G はもちろん cockroach のことではありません)と思ってしまうのではないでしょうか。

ことばの意味は使い方の数だけある。

Ludwig Wittgenstein: Tractatus Logico Philosophicus


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