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祖母とわたしとおたまじゃくし

◉祖母の部屋

幼い頃 よく祖母の部屋に遊びに行った。
電球ひとつの薄暗い小さな部屋、祖母は明治生まれだったから珍しいものがたくさんあった。
勝手にタンスや引き出しを開けて
「あれ何? これ何?」
昭和天皇、皇后他皇族の方々のお写真がいっぱいあった。
新聞の切り抜きだ。
他にも昔の見たことのない写真に私は見入っていた。

私は母に叱られるとよく祖母の部屋に逃げ込んでメソメソ泣いていた。
祖母は特に何も言わなかった気がするが遊んでいるうちに叱られた事を忘れてしまっていた。
母は祖母とウマが合わず私が祖母の所に行りびたるのを快く思っていなかった。
でも私にとって祖母の部屋は駆け込み寺だった。
自室に籠もる祖母に食べ物を届けたり伝言を伝えたり、母と祖母の橋渡し役は私だった。
今ならこの嫁姑問題わかる気がするなぁ…

祖母はよくお小遣いをくれた。
両親はくれなかったから、何か欲しいものをねだると
「おばあちゃんに買うてもらえ!」と言われた。
そして本当にねだりに行き、たまにお菓子や漫画の本、そして毎月 小学○年生という雑誌を買ってもらっていた。
月イチに出る雑誌は中学になっても中○時代とか中○コースというのに変わってお金だけもらって自分で買いに行っていた。
毎月 祖母の所に行き
「おばあちゃん、本買うしお金ちょうだい」
そして中学、高校になると祖母の部屋に行くことがだんだん減っていった。
年金をたくさん貰っていた祖母は免許取り立ての私に
「また乗せてもらわんなんし」
と軽自動車の半額を出してくれた。
病院に通っていた祖母をよく朝送って行ったことを思い出す。
何か買ってもらった思い出は両親よりも祖母の方が多いかもしれない。


◉おたまじゃくしを飼う

幼い頃の思い出に戻ろう。
春から初夏になると田んぼにおたまじゃくしがいっぱい泳ぎだす。
ワクワクした私はいっぱい捕まえて飼おうとしたが、母には叱られるので祖母の庭に行く。
祖母の部屋は玄関から見えない所にあって、外からも自由に出入りができた。
人目につかない其処は、私の遊び場でもあった。

「おばあちゃん、うち、おたまじゃくし飼う!」
祖母は笑いながらふーんと頷く。
たらいに水を入れてたくさんのおたまじゃくしを放つ。
餌はお麩だ。
小さくちぎってやると頑張って食べる姿が可愛くていつまでも見ていた。
何日経ったのか忘れてしまったが、不思議とおたまじゃくし達は元気だった。
たらいの中の水とお麩で育つんだ!
毎日大きくなるおたまじゃくしを祖母と眺めていた。
やがておたまじゃくしに足が生え始めた。
その次は手だ。
「おばあちゃん、足がでた!手が出た!」
今思えば観察日記でも書いとけば良かったな~

手足が出ると姿形もシュッと大人びてきて今度はたらいから逃げようとする。
私はもっといて欲しくてまた たらいに放り込む。

しっぽついてるけど飛べるもんね

ある日 たらいの中のおたまじゃくしが大量に減っていた。
悲しくて寂しくて泣いてしまった。
おたまじゃくしがカエルになって陸を移動できるようになる、当たり前のことなのに子供の私には楽しみを奪われて泣くしかなかった。

◉旅立ちの時

幼い頃は祖母にくっついてお祭りに行ったり、お菓子屋でちょっと高いアイスをねだってみたり、うどん屋に入って素うどんを食べたり…
忙しい両親とはできなかった遊びや話をしたような気がする。
でも祖母も歳を取り、私も大人になり子供の頃のように祖母に接することが出来なくなっていた。
そのうち祖母は病気になり入退院を繰り返し、最期は自宅で亡くなった。
亡くなるその朝、出勤してからどうも左脇腹が痛くてたまらなかった。
痛みを気にしながら会社に行くとしばらくして祖母の死を知らせる電話が入った。
左脇腹は祖母が病気で悪くしていた箇所だった。
行くな、今日は行かないでと祖母は言っていたのかもしれない。


◉カエルとおたまじゃくし

私はおたまじゃくしだったんだ。
美味しい餌を与えられてたくせに手足が生えてオトナになった途端、好きな場所に飛んで行ってしまったんだ。
祖母はすでにカエルになっていて、だんだん大きくなる私を見ていたのだろう。
嬉しく思ってくれただろうか、寂しく思っていただろうか。

おばあちゃんがこの世を去ってもうすぐ40年、
うっかりするとすぐにわたしがおばあちゃんの年齢に追いついちゃうよ…
おたまじゃくしを見ると何故か祖母の顔が目に浮かぶ。

いつも見てるよ~

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