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祈るくらいしかない
昔私は、何かしら問題があると「どうにかしなくちゃ、私が」という気持ちに勝手になっていた。それがたとえ他人事だとしても、なぜかそんな気持ちになった、無意識のうちに。私が助けてあげなくちゃ、みたいな。
困ってる友人がいたら、答を導くようないいアドバイスをしてあげないと。上手くいくよう見守らないと。場の雰囲気が悪くなったらどうにか場を盛り上げないと。ムードを悪くしないようにしないと。
「上手くいかない部分を解決するのは私の役目」なぜかそんな観念を持っていた。ほとんど強迫観念のような。それも無意識のうちに。
そんな謎の使命感からやったことが、功を奏したように思えたこともあった。感謝されたこともあったと思う。でも逆に、そんな私の行動が必要とされない、むしろ退けられるようなこともあった。
「良かれと思ってやったのに」
そんな時は、自分の思うような反応をしてくれない相手に対してモヤっとした気持ちになった。悲しかったし、怒りもあったろう。
でも結局、私は人助けをしているつもりで、人に自分の思い通りに動いて欲しかったんだろうと、思う。そして人から、私のことを「役に立つ人」と認めてもらうことで、私は私を存在させていたのだろうと、思う。「存在していていい」という、誰かの承認を求めながら。
人と関わる中で、自分が苦しくなる理由のひとつに「境界線の曖昧さ」があると思っている。
人の問題なのに、つい首を突っ込みたくなる。家族やパートナー、近しい関係性になればなるほど、境界線の意識は薄れる。境界を曖昧にしがちになる。でも、自分が自分で向き合わなくてはならない部分があるように、人が、その人自身で向き合うしかない部分もあるから。
「もっとこうすればいいのに」とか「何でこんなことしてるの」という批判的な気持ち、頼まれてもいないのに「どうにかしなくちゃ、私が」が出てきたら、それは行き過ぎだ。
今すぐ引き返そう。
代わりに上手くいくよう祈ろう。
当事者たちの力でやれると信じよう。
前出の、謎の使命感「どうにかしなくちゃ、私が」は、一見人助けのようにも見えるけど、実は自分と他者との間の境界線というものが全く見えていない行為だったと、今なら、思う。
当事者たちの力でやれると信じる。
代わりに上手くいくよう祈る。
そう、人が勝手にできることって、祈るくらいしかないんだから。
上手くいくよう祈ろう。
いや勝手に祈らないでくれ、って人も、いるかもしれないけど。
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