人それぞれがルール

ルールに捉われ過ぎると、行為の異常性に気づかなくなる。

「悪人なんだから制裁されて当然」
「悪人なんだから何やっても言ってもいい」

善悪という尺度のみでの判断は危険を孕んでいる、最近特に思う。

大体、そもそも「善悪の基準」って何なんだ?

社会的な道義?通念?
実態がありそうでない「みんながそう言っているから」。

大多数が良しとすることが正解とは限らない。
むしろ感じ方、感覚はひとりひとり違って当たり前のはずなのに。

どうして「みんな」で十把一絡げに、同じ型にはめなくちゃいけないのか。

もうそれを「おかしい」と、声を上げる時。


昔は私も社会の大多数に従って生きることに何の疑問も持たなかった。むしろそこから外れまいと、必死だった。

メジャーな道を選ぶ。
マイノリティには絶対なりたくない、なっちゃいけない。

けれども、そこに必死になるうちに「自分はどう思うのか」、自分の心を見つめることからはどんどん離れていった。
自分の気持ちの確認なんて、やってみようとすらしなくなった。

行動の基準は全て「人にどう思われるか?」
間違ってない?外してない?変じゃない?大丈夫?

そんなことをし続けると、自分が本当はどう思っているのか、本当はどうしたいのか、何をしたいのか、自分の心が、わからなくなってしまう。

「自分はどう思うのか」

自分の気持ち? そんなもの、あったっけ?


社会のルールみたいなものは、最初は有効だったのかもしれない。
多くの人を統率するには必要だったろう。

でも今、ここに来て、ルールからはみ出す人がいる。自ら出ていく人がいる。

それは決してマイノリティなどではなく「私」という存在意義。

個性ということじゃないの、と感じている。

私は私の心に正直に、自分が本当に感じていることを大事に生きたい。

人と違っても、それを誰もが楽しんで、違いを尊重し合って、生きる世の中がいい。

みんなと同じであることに安心して終わる人生はいいや。

与えられたルールはいらないのだ。

人それぞれがルール、それでいいんじゃないか。

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