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向き合いおまけ egoismとsurrender

【サレンダー(surrender)】

降伏・降参・委ねる・明け渡し

【エゴイズム(egoism)】
利己主義-自己の利益を重視 他者の利益を軽視 無視する思考や行動の様式


どんなに力を尽くしても、
守ることには限界がある。
自分を真に守れるのは己だけ。
 己をみよ


その執拗な声からはじまった 自分との向き合い

まず辿り着いた場所
 自我の崩壊。

破壊と創造は 双子のようなものかもしれません。


崇高なるもの、大いなるもの、生命の根源・・・・

そこに自分のすべてを委ね明け渡す。

自分の本来の場所に帰依する

前回も書いた通り
私の場合、これは結構な勇気と覚悟が必要でした。

自分で自分の人生コントロールを放棄するというのは、
良いも悪いもその一切の判断を放棄しニュートラルにし、
人生の全てを明け渡すことだと気づいた時

(もしこれ以上の貧乏になっちゃったら・・・)
(もしなにもかも失っちゃったら・・・)
(もし精神的な痛いことがやってきちゃったら・・・)

そんなことが真面目に不安で 真面目にこわくて。

今思えば、笑っちゃう話なのだけどね。
でもあの頃は、人生コントロールの一切を手放すのは 真剣にこわかった。

第一私はそれまでかなりのエゴイストとして生きてきてて、
過去や未来を常にコントロールしようと必死で、
起きる現象ひとつひとつに判断して
「あ~だこ~だ」と不平不満やら嘆きやら悲しみなんかを溢し、
名誉や地位・賞賛なんてどうでもいいとか思いながら、
心のどこかで常に名誉や地位・賞賛を求めてる、
認められたい愛されたい症候群 でした。

そんな私が無防備になるのは おそらく産まれたばかりの赤ん坊時以来。

真っ裸になるという時点で 結構な勇気が必要なのに、
さらに寝っ転がってお腹見せて、
なにも持たず なにも防御せず「おんぎゃ~!」は、
なかなかできませんでした。

完全無防備の完全ノーコントロール人生

一寸先はなにも見えない 
完全明け渡し



100%身を委ねる
それは100%の信頼がないとできない。

結果としては、全てを明け渡し降伏の決意を宣言したことで得たのは、
<満たさせずに、自分の存在価値を求め彷徨う私の姿>
の消滅でした。

それはあの当時、
私の意識の目覚めを状態を快く思っていない、
無数の姿のない視線の消滅でもありました。

正確には消滅したということではなく、
自分がそこから完全に離れた・・・からでした。

その時気づきました。

無数の私を狙う視線を引き寄せていたのは、
他のなにものでもない 私の中にあったエゴイズムだったのだと。

そしてエゴイズムとサレンダーは、同じ世界で共存できない

エゴイズムの世界ではサレンダーは訪れず、
エゴイズムを超えると 必然的にサレンダーの状態になってゆく。

サレンダーは、エゴイズムの最も忌み嫌うもの。


映画マトリックスに例えるならば、
エゴイズムをスミスに当てはめられるかと思います。

スミスが、私達に気づかせまい逃すまいと必死になるのは

スミス(エゴイズム)だけの世界で閉じ込めておきたく、

スミス(エゴイズム)の創りあげた世界を泳がせながら、

そこが確かで真実の世界と私達に信じこませ続けておきたい。


スミス(エゴイズム)が自分達の住処を確保し続けるために、
スミス(エゴイズム)感染症の世界を創り続ける。

人類の意識に与える 最も強力な感染症。

外側の世界の感染症存在現象はその反映。

スミス(エゴイズム)感染症の世界から抜け出るのは、
防御する方法
避ける方法
遠ざける方法
やっつける方法・・・そうしたメゾットではなく



<超えた世界>へ自分が移動する。

スミスの手の届かない世界へ。

自分の原点に、全生命の根源に、
全信頼を寄せ帰依する、全てを預ける状態

「私」が消滅した状態

サレンダー(surrender)


それが
争いも ぶつかり合いも 憔悴も行われない方法。

今日もありがとう




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