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竜とそばかすの姫 レビュー

竜とそばかすの姫

物語か作品か。私たち観客は無意識のうちに、いや当然のこととして、すべて映画に「物語」を求めている。なぜなら「映画とは物語を映す装置だからだ」と。しかし映画とは「物語」のための装置だったのか?
映画は、ラ・シオタ駅(客席)に汽車が突っ込んでくる「ショー」から始まった。『パサージュ論』のウォルターベンヤミンによれば、技術の黎明期には、活用者が技術の最適なモチーフを知らぬが故に、前時代的なデザインをベースにそれを使用するのだという。

この時代の建築家たちは、鉄の機能性から建築における構造原理の支配を開始させるということを理解しなかった。建築家たちは柱を作るにあたってポンペイ風の円柱を、また工場を作るにあたって住宅を模倣した。

「客席へ突入する汽車」は、映画の黎明期にあって、サーカスの見せ物(ビックリショー)として活躍した。次第に汽車はロケットへ代わり、画面の奥へと突入したロケットは人面の「月」にまで届いた。ジョルジュメリエスの『月世界旅行』がそれだ。黎明期は過ぎ去り、映画には人を楽しませる「可能性」が開かれた。それが「物語」だ。先人たちは「物語」に「プロット」を発見し、映画という表現技法のベースを作り上げた。映画とは、それが物語によって形作られる間は、プロットの制約を受けて「いる方が」より面白く、より熱中でき、より没入できるとされているのだ。

ところで、物語のなかに読者を入れ込むために、すべての物語が必要不可欠な技術として導入している装置、「読者と同じ立場のキャラクター」

もしこれが不在のままであったとしても、物語は進行し得るのだろうか。「読者」不在のこの「作品」は、われわれ観客の没入を許さない。作品と観客の越え難い溝。当事者たちに感情移入できたかと思うと、ふとした瞬間に作品から放り投げられる感覚の連続が、この作品から得られるものだ。Uのなかでベルが鈴の姿になって歌い、みんなが一斉にラララと歌い出すクライマックスシーンなどは、われわれ映画館の観客たちにとっては完全な他人事だった。誰一人、彼女を応援しようと心の中で、彼女と一緒に歌いはしなかっただろう。また鈴にとって「歌を歌うこと」がどれほど大切だったのかも説明されなかった。細田にしてみれば「それは誰にも分からない、俺にも分からない」ということなのかもしれない。なるほど、主人公にしか分かり得ないことは、登場人物たちの誰をとってもわかるはずのないことだし、物語の外側(両岸)にいる作者や読者にはなおのこと分からないことだと、構造上説明することは可能だ。しかし問題はその構造が「この作品」を「物語」にさせているかどうかだ。構造上不可欠とされているパーツの「不在」こそが、この「物語」を「作品のまま」にしているのではないか。

母=シノブ君=読者として構造化できる本作品は、「母の不在」から「観客の不在」にまでテーマを伸ばし、「作品の独立」を描ききった。ではシノブを「母」とするならば、不在の号令のもとに存在を限りなく薄くされた読者は、物語のなかで誰になればよかったのだろうか。合唱部五人のお姉様方はどうか。それは成立しない。女性性や年齢が、彼女たちを「母」にしてしまうためだ。父はどうか。彼はあまりにも物語から離れすぎている。私たちが知っていることすら知らない彼に、私たちは自身を投影することは出来ないだろう。ではヒロはどうか。彼女には別の役割、解説者として読者を導く役割があった。だがそれと同時に、ベル=鈴を読者と同じ距離感で見つめる者でもありはした。では物語構成役割上のアイデンティティ分裂は、読者のなかで受け止められる「情報」だろうか。換言、解説者としてのヒロと、読者としてのヒロは共存し得るのか。

細田はこれを物語として見られることを望まなかったのかもしれない。ただ私たちにとって映画は物語の世界だ。この映画が成立するか否かは、「全知の解説者でありかつ無知の読者であることは可能なのか」という分裂アイデンティティ成立の可否にかかっている。この語義矛盾を含む役割負担が、物語構造という特殊な磁場においては成立し得るのか。後世の判断を待ちたい。


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