アン爺の戯言

シリーズ15弾目に突入です!毎日書き留めた日記を5日分ずつ配信しています。塵も積もれば山となるです。戯言ですから読み飛ばしてやってください!!

戯言シリーズ その71                ‘20.5.26
 自由と束縛・・・束縛を受けることで自由を感じた
  新型コロナウイルス感染の収束に向け、外出自粛要請が1か月半ほど続いてきました。どうやら今月末で「束縛」が解かれそうです。長いトンネルから抜け出そうだと感じると、これまでの緊張感が一気に緩んできた感じです。一昨日の日曜日には、公園や行楽地に足を運ぶ人の数がどんと増えましたし、昨日の月曜日の朝の通勤客もかなりの混雑になったようです。
  「自由って何?」と問われても、明確な答えができますか?人は束縛という異常な状況下が続いていれば、自分の行動は自分自身で決めて好きなように動くことができるのが自由と答えることができるでしょう。でも、他人のことを顧みずに自分勝手に行動することが自由ではありません。今回のウイルス感染を阻止するために、社会全体が一つになって行動を自粛し、自らに束縛を課してきたことで見えてきたことがあると思います。
  ウイルスは目には見えません。自分は感染しないと考えたり、他人には感染させないと考えたりしていても、どこでどうなるかは神のみぞ知ることです。他人への思いやりを考えながら、常に相手意識に立って自分が主体的に行動することが「自由」ということではないでしょうか。
  「自利利他」という言葉の如く、自分の利益のためにとった行動が他者にも利益になるように行動することが自由と言えるでしょう。

戯言シリーズ その72                ‘20.5.27サプライチェーン・・・生産から消費までは鎖の如く繋がる
  コロナ禍が3か月続きました。ここにきて、どうやら人の動きが活発になってきたように感じられます。しかし、この間私にとってはそれほどの不自由を感じてきませんでした。それは、畑という強い味方があったからです。畑には雑草の生い茂る緑の自然がたっぷりとあり、ソーシャルディスタンスを意識することなく農業に励めばいいだけでした。
  農業をしていて思ったことがあります。子供の頃に社会科で習った第一次産業、第二次産業、第三次産業という産業分類のことです。農業や漁業のように自然に働きかけながら生産物を得る産業が第一次に位置付けられていることです。当たり前のことですが、次につながる産業資源をまずは作り出さなければ、それを加工する産業は成り立ちませんし、更にそれを売るためのサービス業がなければ物は流通していきませんし、社会は成り立ちません。
  昔は、ただ産業分類のための概念と思っていましたが、今回のようにどこかが滞ってしまうと、あらゆるところがパニック状態になってしまうのです。せっかく作った野菜が売れずに農家の悲鳴が聞こえてきましたし、自動車を作っても外出しなければ必要ないし、お客さんが来なければ料理を作っても無駄になってしまいます。
  「食物連鎖」ではありませんが、すべての産業がチェーンのようにしっかりと結びついているのが現代社会なのです。

戯言シリーズ その73                ‘20.5.28給付金・・・「スピード感をもって」とは政治用語か
  今回のコロナウイルス騒動でダメージを被った家計を少しでも助けようと出される「国民一人につき10万円の給付金」は受け取りましたか?友人の住んでいる市では、既に申請書類が届き給付申請を郵送したそうです。しかし、私の住んでいる市ではまだオンラインですら申請手続きに入れません。住民の数にもよりますが、スピード感をもって給付すると言い続けてきたのに、未だ届きません。
  コロナ感染防止のために、窓口申請をやめてオンラインによる申請をすれば、役所に出向かず簡単に申請手続きが完了すると予想していたはずが、パソコン上に映し出される書類の照合に手間取り、却って煩雑な作業を強いられているようです。処理する人数も不足していては捗らないでしょうし、まだ日本はオンラインシステムでは後進国なのでしょう。
  今日もお昼のニュースで、ある市での申請処理を間違えてしまい、二重に給付金を振り込んでしまったそうです。果たして振り込まれた人は正直に名乗り出るでしょうか。誰もが苦しい家庭事情です。「これは儲かった!」とインマイポケットしてしまう人がいるかもしれませんね。
  日本は申請主義の国ですから、申請しそこなうと給付してもらえません。貴方が悪いと却下されてしまいます。反対に、税金などは少しでも足りないと催促されます。まあ、税金は国民のためのお金ですから胡麻化してはいけませんが、、、。給付金は果たしていつになるかしら?

戯言シリーズ その74                ‘20.5.29「罰が当たる」・・・自分に向けた行動規範の言葉が
  「そんなことをしたら今にバチが当たる」とか「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるぞ」といった言葉を小さいころから聞いて育ってきました。こうした言葉は、子供たちへのしつけとして親が事あるごとに言い聞かせては教え込んでいたのでしょう。これから先の未来は誰にもどうなっていくのかわかりませんから、この言葉を聞くことで自分の言動への戒めとして働いたのです。
  他人に対してどうのこうのというものではなくて、自分の中に善悪の判断規準を作っていく言葉です。小さい頃に道徳的な規範意識を繰り返し話して聞かせることで、人間は脳の深いところに潜在意識として持つようになります。「三つ子の魂百までも」の考え方です。
  今日の読売新聞に世論調査の結果が掲載されていました。その中に、「今にバチが当たる」という因果応報の怖さを自らに課すための言葉を信じる人が76%もいました。1964年の世論調査では、信じる人・信じない人がほぼ40%でした。無宗教の人が増えている日本人にあって、こうした宗教的な言葉を信じる人が増えているのです。若い世代の人が子供の道徳的しつけのために子供に言い聞かせているとは考えにくいです。
  多分、昔と比べて格差社会になってきたのではないでしょうか。騙したり悪さをしたりしていい思いをしている人への妬みかもしれません。

戯言シリーズ その75                ‘20.5.30熟した梅・・・辺りには甘酸っぱいいい香りが漂います
  私の部屋の窓からは、狭い道路を挟んで向こう側に梅林があります。初夏の陽光に照らされて緑の葉がより一層、緑の濃さを増してきました。ちょっと目が疲れたら窓外に目をやることで、疲れた目を癒すことができます。
  梅の実は葉に隠れて見つけることが難しいのですが、黄色によく熟した梅の実が道路に落ちるのです。梅酒や梅ジュースにする青梅を取るのは、もう少し先の入梅の頃ですが、どうしたわけか黄色く熟してしまった梅の実が毎日のように道路にコロコロと転がっているのです。
  朝起きると、真っ先に落ちた梅を拾い集めています。掌に載らないくらいの数が拾えます。夜に風が吹いた日などは手で持ちきれないくらいの数です。甘酸っぱい梅の香りがあたりに漂っています。その梅を拾い集めては「梅ジャムにするんだ」と、小さな鍋に入れては作っています。青梅から梅干を作って食べることは出来ますが、落ちてきた熟し梅は食べられるのでしょうか。                                                                                                                    子供の頃は、「落ちている梅は食べるな」と母親からよく言われたものです。虫食いで熟した梅には疫痢や赤痢の病原菌がついていると言われました。本当でしょうかね。妻は、せっせと拾ってきては水洗いして鍋に入れては、適当に砂糖を入れて甘みを付けて煮ています。加熱処理しているから大丈夫そうですが、、、私は食べません。                                                                  不思議に思って、落ちている梅のそばにある木を見上げてみると、その木の実だけが黄色く熟していました。他の木の実は、まだ青々としていました。その木だけ早生種なのでしょうか。それにしても、今年はよく実が落ちます。

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