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やがてマサラ #23 モーレツかあちゃん

皆さんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれることになったのか? 生い立ちから始めてようやく近現代史に入りました。

ラッキーとしかいいようがない流れで外資系証券会社に就職、その後は。

荒野のライオン

当初の残務整理が終わると新たな業務が課せられました。世界80か国に関係会社がある会社だったため、仕事は半分くらいが国境をまたいだ業務でした……と書くとなにやらカッコよいのかもしれません。が、これは実際やってみると切れ目がなくしんどいものです。朝イチにニューヨーク、午前はシドニー、東京、香港、シンガポール、午後遅くなってくるとロンドンやベルリン。年俸制で残業という概念がありません。やることが終わったら定時でさっさと帰ってよい反面、終わらなければずっと離れられない。

そしてなんと私を採用してくれた上司、イチから仕事を教えてくれた先輩ともにご転職。未経験で入社した会社で、1年後には私自身が自分の相棒を採用面接する立場になりました。やっと見つけた相棒ですらいつまでいるか分かりませんし、上司もしょっちゅう変わります。平均在籍年数は3年と言われる入れ替わりの激しい職場でした。また外資系といえばの突然の解雇も年に何度か目にする光景。

恐ろしいところに来てしまったな……というのが最初のころに感じていたことですが、慣れというものなのか、私が適応力があったのか分かりませんが、いつの間にかすっかり馴染んでいました。なにより、仕事を超えたプライベートを積極的に開示しなくてもまったく問題がなく、よくも悪くもあっさりした人間関係がとても居心地がよかったのです。のちにそうした働き方も変わってはいきますが、当時の「東京は自分だけでこの業務が回る」という実績も自信に繋がっていきました。

がっつり働き、休むときには完全に会社のことを忘れてよい。それまでの5年間の放浪生活で妙な具合に自分の世界ができあがっていた私には、旅のこと、インドのことを話すのはほんとうに親しい人だけにしたいという生来の内向き志向がむくむくと頭をもたげていました。

インドはどこまでいってもイロモノで、ほかの国と同じ感覚で「インドが好き」とは言えないのだと思っていました。やれ東大だハーバードだ、どこそこのロースクールだ、前職はどこそこのロンドン支店だニューヨーク支店だという人ばかりの職場で、面と向かって「インドが好き? オトコかクスリか」などと言う人はいなかったと思いますが、それにしても、自分が歩んできた道とはあまりにもかけ離れた世界の人々に、自分とインドの関わりを誤解も偏見もないように説明するのはたいそう億劫なことに思えました。

ロンドンから帰国して以来、歳下の、まだ駆け出しという感じの人と暮らしていました。寡黙すぎるほど寡黙、会話は1往復するのもひと苦労、表情からも感情が分からない。私の世界を邪魔しない人という意味で理想的だったし、なかなか安定した収入にはつながらないけれど、彼がやろうとしていたことにはとても感銘を受けていました。稼げるほうが稼げるときに稼げばよいではないかと、34歳で結婚。

いつまで会社にいられるかは分からないけれど、いまのところまだクビは繋がっている。とにかく私は外で稼いでくる人。経験値も能力も、そのときあるほうが他方を引っ張っていき、いつか対等になれたらそれでよい。そんな思いで、せっせと働いて糧を持ち帰る私は、荒野で獲物を狩るライオンのようだったなと、いま思い返すと思います。

モーレツ妊婦

それまでの放浪生活で、心から「ただいまと帰れる自分の家」に憧れていました。とにかくいつ解雇されるか分からない会社です。住宅ローンを組むならいましかないと、夫が留学中にマンションを衝動買い、夫不在で引っ越しも完了。まあ世間的にはむちゃくちゃな妻だと思いますけれど、そういうことにも文句を言わず、留学前に出て行ったときとは違う家に淡々と帰ってきた夫と結婚してほんとうによかったと思ったものです。

妊娠が分かったのはインド旅行の飛行機に乗る6時間前。いまなら「やめなさい」と言うと思いますが、当時の私はインド行きを決行しました。最初の数日はなんともなかったのですが、ある日を境に猛烈な悪阻が始まり、珍しい地域の珍しい料理を食べたくてしかたがないのに食べられない。私の人生でインド料理を一切受け付けなかったのはこのときだけです……。

一方、会社の所属部署では妊婦が過去10年以上いたことはなく、私自身も妊娠をきっかけに環境を変えようなどとは考えにも浮かばず、仕事は相変わらずてんこ盛り。日系の会社であれば3名で回す仕事を1名でこなすのが外資系とあとから聞きましたが、まあそうでしょう、そのための高給ですから。

会社の激務に加えてマンション購入で駆けずり回っていたら、ある日、出血。ロンドンでの流産の記憶が蘇り、慌てて病院に行ったら担架がすっ飛んできまして、そのまま入院となりました(日本の病院は素晴らしい!)。夫は留学中。荷物を取りに帰ることも許されず、スーツのジャケットを脱いで「シャツにシワが寄るなァ」などと思いながらひと晩過ごしました。

妊娠初期の切迫流産ということで1か月の安静を言い渡され、ベッドから動けない毎日です。当時はまだ危機管理のための仕事分散という考え方は会社にも私にもなく、放っておくとメールがたまる一方なので病室にパソコンを持ち込んでずっと仕事していました。

診察のたびに「退院させてほしい」と訴えていたら「きみはここにいるほうがストレスになるのかもね」とどうやら容態が安定した2週間後に退院がかないました。

自宅から会社までは30分程度の移動時間でしたが、満員電車での通勤が辛く、社用車で通勤できるような身分でもなく、朝晩、しんどいときはタクシーで通勤するようになりました。臨月にはついに毎日タクシー通勤になり、月のタクシー代は10万円を超えました。会社でも家でもフル回転だったので、この往復合わせて1時間弱が心から寛げる時間でした。

いよいよ明日から産休! という日。会社の裏手のタクシー乗り場に、私が退社する21時前後に待機していてくれる馴染みの運転手さんが何人かいまして、その日はなかでも一番乗車回数が多かった方でした。

乗り込むなり、「明日から産休なんです!」と宣言して、そのままバタンと後部座席に仰向けになり、秒殺で意識が遠のきました。自宅に到着すると運転手さんが起こしてくれ、長期休暇の前なので少々多めだった荷物を降ろすのも手伝ってくださり、「かあちゃん、がんばれよ、いい子を産んでくれよな」という言葉をかけてくれたのをよく覚えています。

モーレツかあちゃん

妊婦というにはあまりにも過労がたまり、身体中がガチガチになっていた私の出産は難航しました。いろいろあって緊急帝王切開。

2009年9月。切迫流産にも負けず、母の過労にもへこたれず、促進剤でぐいぐいやられてもしぶとかった子は、女の子でした。性別は聞いておらず、妊娠後期の連日の、私の腹部に内側から足型が浮き出るような力強い蹴り(痛かった)の入り方から男の子だと思っていた私、びっくり。

娘との7か月の蜜月はほんとうに幸せな時間でした。朝から晩までずっと一緒。夜泣きで寝不足になろうとも赤ちゃんはかわいかったし、なにより仕事をしているときより睡眠時間は確実に確保できていて、複雑な段取りや計算に頭を使わなくてよいぶん、気持ちにも余裕がありました。

このまま専業主婦になれたらどんなにいいだろう。心ゆくまで料理して、丁寧にアイロンがけをして、家の中をいつも綺麗にして。

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2010年4月、職場復帰。生まれてから7か月、24時間ずっと一緒だった娘を保育園に預け、駅に向かう道すがら、寂しさにぽろぽろと涙が出ました。折よくなのか折悪くなのか出社当日から会社は新たな課題に直面していて、復帰1日目に問答無用でいきなりのハードな復帰となりました。

ありがたいことに娘はとても丈夫で、育てやすい赤ちゃんでした。保育園最初の年は、やれ熱が出たとか下痢をしたとか、お迎えに来てくださいと職場にかかってくる保育園からの電話が恐怖……と聞いていたわりに、よそ様よりは頻度は少なかったように記憶しています。

3歳まで使える時短勤務を部署の過去10年で初めて利用し、「家庭と仕事を両立させるワーキングマザーのロールモデル」を作りたい会社の意向ともマッチし、私の働く環境は悪くはなかったと思います。実際、他部署から異動してきたり中途採用で入ってくる妊婦さんが増え、一時は10名ほどの「お母さん」を抱える部署になったりもしました。

「せっかく築いたキャリアなのだから、細くてもいいからやめずに継続するのが大事」と巷で言われる通り、私も出産前と比べるとかなりセーブした働き方をするようになりました。自分しかできないことを付加価値にして勝負するのではなく、仮に自分が欠けたとしても業務が回る、そんな仕組みの見える化が当時の私の課題でした。私に会社員時代の功績がもしあるとしたら、入社時に買われた個人としてのパフォーマンスよりも、そういう仕組みをつくってある程度の働きやすさを整えたことにあるのかなと自負しています。

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ただ、時短勤務の期間をすぎフルタイムで完全復帰、昇進もして自分の下に人を抱えるようになると、「疲れた、休みたい」と思う頻度は高くなっていきました。ベビーシッターさんなどいろいろなサービスも利用しましたが、娘の食事に関してだけは手を抜きたくなくて、すべて手作り、食材も取り寄せたりして手をかける。

会社でも家でも私のスケジュールは分刻み、頭のなかは常に次の行動の段取りを考えていました。どうしたら人は気持ちよく動いてくれるのか。どうしたら上司や上層部に効果的なアプローチができるのか。上にも下にも人がいる中間管理職のよくあるジレンマに案の定ハマり、抜け出せずにいました。同時期に夫の仕事も勝負に出ることが多くなり、「うちには大きな長男と小さな長女がいるのだから私ががんばらないと」というのが当時の私の心境でした。

家族旅行でインドの贅を知る

そんな綱渡りの毎日、それでも仕事を続けられたのは、毎年上がっていく年俸と長期の休みの取りやすさが理由です。会社の誰もが「自分が休暇を取りたいから他人の休暇には口を出さない」という共通認識があり、有給休暇は必ず消化、休みたいときに細かい理由など求められずに休めました。クリスマスの声が聞こえてくる12月に入ると欧米人たちは早々に休暇に入ります。3週間くらい誰かがいないのはいたって普通で、私も2週間程度の休暇を年2回ほど確保できるのは大きな励みになっていました。

育児休暇中に生後4か月で連れて行ったハワイを皮切りに、沖縄、シンガポール、パリと記憶もないころから娘を海外に連れていきました。4歳でインドへ。私もおっかなびっくりで、ホテルも移動もすべてを最高級で固めた結果、9日間の家族3人の旅費総額は3桁に。バックパッカー時代のいったい何倍になるか分かりません(笑)。年に2回そんな家族旅行。行かずに貯金していたらひと財産あったと思います。

インドは、お金を出せばある程度の安心安全と快適さが担保される国です。ただしコストパフォーマンスは概してとても悪く、日本であたりまえのレベルのサービスに何倍も経費がかかります。安く済ませることもやり方次第では可能だけれど、そこをケチると中途半端さに不満だけが残るので、お金をかけるときはきっちりかけるのが肝心な国だと思います。

自分ひとりでは決して縁がなかったであろうハイエンドのホテルやリゾートをあちこち発掘した経験は、そのときは予測していなかったものの、のちにアンジャリツアーを企画するときの指針にもなりました。節約旅行や出張での滞在しかしたことがなかったとしたら、現在のようなアンジャリツアーはおそらく思いつかなかったでしょう。なんでもそうですけれど、身銭を切って自分で経験するというのはなによりも財産になります。

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出張の解放感

会社では海外出張もありました。初めての出張は5日間のシンガポールで、夫と実家の両親に留守を託しての渡航。娘が3歳のときのことです。事前の準備や段取りは大変ですが、羽田空港から全日空の機体が飛び立った瞬間の解放感は忘れがたい思い出です。

子どもの相手も家事もせず、仕事だけしていればよい数日間は夢のようで、朝から晩まで会社に缶詰だったにも関わらずとても楽しかった。仕事も親睦会も終わった深夜にこっそりインド人街にタクシーを飛ばして24時間営業の南アジア系デパート『ムスタファ・センター(Mustafa Centre)』で22金アクセサリーを衝動買いしたのも初めてのシンガポール出張のときでした。以後、インドやシンガポールに行くたびに22金アクセサリーを買うようになります。2020年年1月のチェンナイツアーでは初めてお客様を専門店にお連れしましたが、このころからの金買いの楽しさを皆さまにぜひご紹介したかったのです。

外資系証券会社での10年間はインドとは業務以上の接点はないように見えて、その実、現在のアンジャリツアーの根本を形づくる貴重な資金と時間がたくさんあったな、といま思い返すと実感します。

インド古典舞踊との出会い

いよいよ30代最後の年、健康診断で医師に言われたのは「運動しなさい」のひと言。気づけばメンタル以上に体型もずいぶんとたくましくなっていました。デスクワーク中心で動かない中年はやはり皮下脂肪をためこんでまいります。

ジム、ヨーガ、スイミング、加圧トレーニング……、あれこれやってはみたものの、どれも長続きしません。そんなとき、15年近く前にライターとしてインド関連の記事を書いていたときに知ったインド古典舞踊の先生の新刊の著作を見つけ、教室が近所にあることを知り、体験クラスに参加してみたら。

ハマりました。裸足で打ち鳴らすステップ、インド古典の独特の拍、できそうでできない複雑な動き。それまでもインド映画のミュージカルシーンをきっかけにインド舞踊にはかなり没頭していて現地でも暇さえあれば鑑賞していたのですが、自分自身がやってみるという発想はまったくありませんでした。

週に一回、シッターさんに娘をお願いして、半日を踊りのレッスンと筋トレに費やす。そんな趣味が加わり、さらに好きな踊り手さんの追っかけをしに海外遠征をするという新たな旅の目的も加わり、やはりこれも現在の「推しを追う」アンジャリツアーに繋がる要素となっています。

インド映画上映会

休暇以外ではインド色薄めの会社員生活が続くなか、インターネット黎明期にネット上でやりとりしていたインド映画ファンの知り合いからひょんな流れで定期的に日本語字幕つきの最新インド映画DVDが送られてくるようになりました。2013年ごろのことです。関西にお住まいで近隣にインド映画のことを話せる人が誰もおらず、趣味で日本語字幕をつけたのに感想を聞ける相手がいないからと、我が家には最新の日本未公開タイトルが多いときには週1回ほどのハイペースで送られてきました。

皆さまご存知、粒揃いのインド映画ですから「こんな名作をひとりで観るのは惜しいなァ」と思い、mixiで顔見知りのインド映画仲間に声をかけ、区民センターのような公共施設を借りてはごく少人数で鑑賞会をやるようになりました。そのときよく話していたのは、「インド映画はこんなに面白いのに、なかなか日本で定着しないねえ」ということ。

会社の仕事は仕事として、長年付かず離れず付き合ってきたインドのことを何らかの形で発信して、もっとインド映画仲間を増やせないだろうか? 「インド好き女性」がイロモノではなくもっとメジャーな存在になれば、私も楽しく堂々と毎日を過ごせるのではないだろうか。

そんなことをうっすらと考えながら、2か月に1度ほどのインド映画上映会を1年ほど続けました。最終的には一回の参加者が30名を超えるようになりました。2015年11月には"Masala Press"というインド情報サイトも開設、睡眠時間を削っては(あまり読まれるアテのない)記事を書いていました。

会社ではまた昇進したものの、そのまま管理職へのキャリアを辿るのか、いよいよ自分のポジションを後進の誰かに譲り自分は退くのかという瀬戸際に立ちました。創業以来初という大きな赤字を出し業界的にも大きなニュースになった年で、8年も居座った私にもいよいよ緩い肩叩きが来たのでした。

所属部署で入社時にいた顔ぶれはほとんど入れ替わっており、私が一番古参です。入社した2006年はまだ業界にも勢いがあり、どさくさに紛れて私のような門外漢が入社してしまったけれど、何度考えてみても自分は金融にも証券にもインド以上の愛はないのです。

そしてやってきた賞与が前年比9割減という露骨さは、むしろ、この会社はこれまでこんな自分に価値以上の経済的余裕を与えていてくれたのだなあという驚きと感謝の念を起こさせるものでした。

40歳という節目も過ぎていました。人生の折り返し地点はどうやら過ぎたし、残りの人生、奮起して金融業界でのキャリアを積むガッツがあるなら、その情熱はインドに注げないだろうか。

潮時だな。

会社に退職の意志を伝えたのは2016年2月のことでした。

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