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晴れときどきマサラ #4 花泥棒への道

これはいったいなんの罪と罰なのか? 天を仰ぎ嘆くようなことが人生にはあります。

よく食べよく寝てよく笑い、ぬくもりを分け合い、人間の三大欲を適度に満たすことができれば、それが幸せというものなのかなと最近よく思います。

地位やお金は己の自由のために必要ではあるけれど、そのために誰かから笑顔や誇りを奪ったら不幸なのは奪ったその人自身ではありますまいか。あなたは幸せなの? 憂いが垣間見えるその顔に、いつも問いたくなるのです。

ずいぶん前に書いた文章が出てきました。奪いたくて奪えなかった花。狂おしく愛し手折ることができなかったその花は、いまもきれいに咲いて私の心に安らぎをくれる。

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花泥棒への道

君を奪って逃げよう。

よこしまな思惑を、あからさまに地上を照らすお天道様が嗤った。

乾燥しきって埃だらけ、5000メートル級の峠を3回越え、一面砂利の灰色に空だけが異様に青い殺風景な道を数日かけて、インド最北端のラダックに着いた。

秘境なんて呼ばれるのがちゃんちゃら可笑しいくらい、夏のラダックは旅行者で溢れていた。

ラダックはチベット文化圏の西の果てだ。中国領になっている本家チベットではあらかた破壊されてしまった貴重な文化が、インド領にあったがために守られた。

中心地レーから、政情不安定なカシミール地方を掠め、軍の検問を受けながら、馬鹿になったように西へ、西へ。心優しいラダック人と、青すぎる空からの遁走だ。健全さはいつも私を怖気づかせる。

仏教色が薄れていく。パーキスターンへと通じる街道を外れて、重い荷物を担いで登った小高い地に、その村はあった。

杏の里の平和な午後。岩の上、民家の屋根、いたるところを剥き出しの橙色が覆う。杏を乾燥させているのだ。散歩の余興に、手の平一杯にくすねては口に運ぶ。

追いかけて来る姉弟ちびっこは仏頂面だった。だから杏泥棒を咎められるのだと思った。

すれた旅行者のパラノイア。それは咎にあらず。

ものも言わず差し出す姉弟の手には、淡い桃色の花があった。不意をつかれてうろたえた。無骨なカメラを向けると、少女はあえかに微笑んだ。レンズの向こうの、こびりついた鼻水の陰に隠れた幼い色香に、一瞬にして、酔った。

君の花を奪いたい。私が男だったら、きっとそう思っただろう。杏泥棒なんかやめちまえ、僕は今から花泥棒。やましい妄想を抱いて、ほんの少し気をとり直した。

レーに戻った。いつまで経っても、高度3500メートルに慣れることがなかった。坂道を登ってはぜいぜいと息を切らし、夕方になるとひどい頭痛に襲われて悪態をついた。それなのに我慢比べのように私はレーから動けなかった。

お天道様だけじゃない。灯りのない夜は月明かりさえ眩しく、一面に黄をまき散らす芥子菜畑を照らし、地面に私の影を細長く映し出す。

あの花も、この花も、奪えなかった。あるいは、奪ったつもりで奪われてばかりだった。いつもいつも。

空の色が少し薄くなり、並木のポプラが種子を乗せて綿毛を飛ばすころ、下界に降りた。猥雑に湿った空気は濃密で、乾いた鼻の奥を2ヶ月ぶりに潤した。

差し伸べられた手を払い、畢竟、醜い蛹はいまだメタモルフォオゼを遂げていない。華麗なる花泥棒への道は、ずっと先にあるらしい。

※『pomelo vol.7 from Thailand(QUEST MEDIA刊)』 2003年12月号『探し物はシアワセの欠片』より再掲


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