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やがてマサラ #13 ラダックのお葬式

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? 生い立ちから書き始めたこのエッセイ。終わる気がしません……。

再びのインド

「夏にはラダックに帰るから、一緒に行く?」

せっかく就職した旅行会社を1年で退職。先のことをあまり深刻に悩まないのが私の長所です。添乗や日々の業務でまったく自分の旅の時間が持てなかった反動で、「とりあえず3か月くらい旅をしながら次の道を探そう」と考えていました。

2001年3月末、退職してすぐインドに向かい、仕事を通じて知り合ったデリー在住の友人の家に居候することに。サウス・デリーの閑静な住宅街に暮らすラダック出身の一族とてんやわんやの日々を過ごしていたらあっという間に時間がすぎていきました。

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頃はデリーが暑季に入る4月から5月。

私が知る90年代のインドにはまだショッピングモールがありませんでした。買い物というのは、商店街に行き、専門店で必要なものを必要なときに買うという行為。友人の家は1999年にできたばかりのデリー初のショッピングモールAnsal Plazaの近くにあり、「用事はないがちょっとぶらぶらしに」しょっちゅう皆で少しパリッとおしゃれして出かけては空調の効いた館内で涼んでいた記憶があります。

いまでこそ各地にショッピングモールが乱立していてそんな家族連れや若者グループの光景もごく当たり前ですが、インドにおける「買い物がエンターテイメントになっていく」まさにその時代を肌で感じられたのだなと感慨深い思いです。

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インド最北の地

ラダックはヒマラヤ山脈に囲まれたインド最北部ジャンムー・カシミール州(※注)にあります。映画『きっと、うまくいく』のラストに出てくるパンゴン湖がある場所といえばイメージできるでしょうか。

かつてラダックは独立した王国で、インドに併合されてからも1974年までは外国人の立ち入りが制限されていました。中国の文化革命により破壊されたチベット文化が、インド領であったために守られ残されており、「小チベット」と呼ばれていたこともあります。

険しい山脈により下界と隔てられ、ラダックへ向かう道は一年の半分以上を雪に閉ざされています。夏の間の数か月だけ陸路で行き来することができるのです。

そんな陸の孤島のような場所ですから、ぼろぼろのクルマでもラダックで売ったら良い値がつくのだそうで、帰省とボロ儲けを兼ねた旅に誘われたという次第。

そんなおもしろそうな話を断るわけがありません。

ラダックへの道

東京に一時帰国ののち、2001年7月初旬に再びインドへ。一時帰国中に脳みそが停止するできごとがあり、いまいち機能しない自分の頭にもどかしいような、苛立つような、ひっきりなしに動いていないと叫んでしまいそうな、そんな状態でした。

相変わらずの猥雑なインドと愉快な仲間たちに囲まれていると、私は大丈夫、元気に楽しくすごしていると思えてきます。

ラダックの中心地レーの街に暮らす一族へのお土産を積み込んで、デリーを出発しました。中継地の山あいの村マナリで一泊して、翌朝、いよいよレーを目指します。レーは高度3,500メートルの街で、たどり着くまでに5,000メートル級の山を何回か越えなくてはなりません。

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外国人旅行者がここを陸路で行くときは四輪駆動車を使うことが多いのですが、我々の乗り物(そして売物)は、スズキがインドとの合弁会社と製造していたマルチという小型車でした。

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マルチはいいクルマですが、友人のマルチは下界のデリーでもポンコツの部類に入る年季の入り方。高度が上がるにつれエンスト数えきれず、エアコンない、バックミラー片側しかない、窓閉まらない、パワーなさすぎて進まない、誰だこんな車でここを通ろうと言い出したやつは。

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果ては高度4,000メートル地点でエンジンオイルのタンクが砂利で破損し、オイルが全流れして走れなくなりました。

周りにはなにもないしJAFも来ません。

「さっき通り過ぎた軍の基地に修理道具を借りに行ってくる〜!」と呑気に言いおいて、友人はてくてく歩いていってしまいました。さっき通ったって、30分くらい前の話じゃなかったっけ。歩いて行ったらいったいどのくらいかかるんだろう。その間、私にここにひとりでいろと、そういうことでしょうか、あの。

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途中で車が来たら裏切って乗って行こうと思っていたのに、一台も通りゃしません。だいたい寝坊してマナリ出発が遅かったのです。夕暮れまでに厳しい峠越えをクリアすべく、その日はもうほとんどの車両は通りすぎたあとでした。

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友人家族へのお土産のマンゴーやお菓子を勝手に開けて貪り食べ、道端に寝っ転がり。

高地のためすでに植物の気配はありません。緑のない、土気色一色の月の砂漠のような山脈が延々と連なり、雲ひとつない空はどこまでも青く、眺めているとまるで空に落ちていくような錯覚に陥りました。

薄い空気で頭が回らないのか不思議と怖さはなく、こんなに美しいならば、このまま空に消えてしまってもいいかもな、なんて。

迫りくる日暮れ。気温がどんどん下がり、ボケッとしていた頭がすこしシャキッとすると、今度は、火ってどうやっておこすんだろう、何を燃やそう(燃やすものがないのです!)、そんなことを真剣に考えました。

4時間ほどして、友人は道路整備の作業員を乗せたジープに乗って戻ってきました。作業員の皆さんもたいへん気持ちよく手伝ってくれ、オイルタンクの穴は無事補修完了。補充用のエンジンオイルはコーラの空ペットボトルに入れられていました。ふう。

その後は4,500メートル付近の簡易宿泊所のテントで夜明かし。

ネパールのヒマラヤトレッキングに続き(この年の暮れのキリマンジャロでもやられた)、またしても私は高山病でダウンです。

火を焚いて暖をとる人々。テントのなかで青色吐息の私をよそに、友人は宿泊所の管理人たちとはしゃぎながらバドミントンに興じていました。そりゃまあ生まれたときから高地で育ったのだから当然といえば当然なのでしょうが、同じ人間とは思えねえわ、あいつ楽しそうにしやがってあたしゃ苦しいわ、とひとり毒づく夜でした。

ちなみに「あいつ」はいまやラダック議会の議員になり立派に地元の名士として幅を利かせております。

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珍客の来訪

レーの友人の実家では、珍しい外国人の来訪でちょっとした祭りになりました。遠くの村から2日かけて親戚がやってきたり、近所の人も毎日訪ねてきては、埒もないおしゃべりで毎日がすぎていきました。

こちらはレーのかつての王宮。

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よく抜け出しては散歩しました。

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オールドレーと呼ばれる地区にて。

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8月15日のインドの独立記念日の式典では、伝統衣装のフル装備に身を包んだラダック人のパフォーマンスを見学。

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近郊への小旅行

せっかくだからと友人一家はレー近郊のあちこちに連れて行ってくれました。

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ここどこだろう。険しい顔をしているのは眩しいからです。

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こちらはティクセ僧院。よくもまあこんなところ(失礼)に人が住もうと思ったものです。

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のちにフランスのモンサンミッシェルを訪ねたとき、このティクセ僧院を思い出しましたっけ。自給自足の要塞でもある僧院は、その立地や建築が似通うのかもしれません。

ティクセ僧院にあるたいへんゴージャスな弥勒菩薩像。高さ15メートルもあります。

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ちょっと足を伸ばして、パキスタンの国境方面も訪ねたり。

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こちらは頭に花の飾りを載せた人々が暮らすダー/ハヌー村。

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楽園の2か月

友人の実家は由緒正しい地元の名家で、私は一族の立派な家の、一番立派な部屋を与えてもらっていました。

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ラダックの家庭にはそのころはまだ水道がありませんでした。坂をえっちらおっちら登り下りして、近くの共同の水場にバケツを持って水を汲みに行きます。レーに来てから何日経っても3,500メートルの高度に順応できず、いつも息を切らし薄い空気に難儀していて、そんな私が水を運ぶと家に着くまでにバケツの水が半分になってしまいます。

「君はなにもしなくていいから」

かくして私は、夜は一番先に寝て朝は一番遅く起き、しどけなく寝乱れている寝床までチャイを運んでもらい、黙っていても三食出てくるという、居候のくせに誠にけっこうな待遇を楽しませていただくことになりました。

やることと言えば、一族の子どもたちと遊んだり、訪ねてくる人たちに旅の話をしたり。娯楽の少ない土地で、遠く日本からやってきた私はいるだけでエンターテイメント。

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日本の感覚で言うと、素性も知れぬ外国人が予定は未定で長期間家にいるなんて迷惑でしかないと思うのですが、そこは懐の深いインドです。気づけば遠縁の誰かが食客になりすましては常に何人か居候しているし、大家族だから人手はたくさんあるし、つまりは私ひとりが増えたところでなんの不都合もありません。

このとき高校生だった友人の弟はのちにデリー大学で観光学を修め、インド有数のホテルチェーンであるタージグループに就職、現在はモルジブのタージホテルの支配人を務めています。

「あのときミキが話してくれた外国の話に触発されて、将来は絶対に海外で働こうと思ったんだ」とのことです。私のせいで大切な息子が遠く海外に行ってしまい、ご両親には申し訳ないような、でも、あの可愛らしかった少年の出世は誇らしいような。

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楽しい日々はあっという間にすぎ、ラダックに来てから2か月が経とうとしていた、夏の終わり。

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和やかな午後に

その日は親戚一同が30人ほど集まり、ワイワイガヤガヤとモモ作りをしていました。モモはチベットやラダックで食べられている蒸し餃子のようなご馳走です。

朝からヤギ肉を買いに行き、そのほかほかした潰したての塊肉を出刃包丁で叩いてひき肉にしたり、トマトでソースを作ったり、マイダと呼ばれる強力粉をこねては皮を作ったり。

人手はたくさんあるので、少々人疲れした私は、こっそり別室に抜け出し寝転んでいました。ずっと頭をチラついては考えないようにしていたこと。ラダックに来る直前、一時帰国した東京で起きたことをうっすら考えながら、うとうと居眠り。

「スーッ!」

うたた寝を切り裂いたのは、友人のお母さんの叫び声でした。ラダック語の「スー」はなんだっけ、そうだ"Who"だ、「誰が」だ。誰が何をしたっていうんだろう、あんな大声をあげるお母さん珍しいな。モモ作りは終わったのかな。さぼった言い訳はどうしよう。

寝呆けたまま、声のした居間を覗きに行きました。

その場にいる全員が、眼を真っ赤にして泣いていました。ただならぬ空気が立ち込めていました。何が起こったのか把握できない私に、友人の妹が英語で説明してくれました。

駆け込んできた使いが、この家の息子が事故に遭って重体だと告げ、それを聞いたお母さんが「誰が」と叫んだのでした。事故は家のすぐ近くで起きたらしく、男たち数人が飛び出していったあとでした。

交差点の真ん中で、ハンドルがひしゃげ胴体が圧縮されたように潰れたスクーターとともに、前日会って話したばかりの友人の従兄弟がいました。大型トラックが二台、その前後に横転し、一台は横の商店に突っ込んでいました。

救急車はなかなか来ず、野次馬だけがどんどん増えました。ようやくやってきた救急車で搬送されたものの、その夜、彼は亡くなりました。

月夜に舞う

春に一時帰国した東京の夜、満月。電飾に彩られた街を眺めていました。綺麗だけれど、その数えきれないキラキラは満月の前には心許ないようにも思え、街の灯りには、引き寄せられた猥雑な者どもが紛れているような気がしました。

友人の従兄弟の事故のあと、葬儀の準備でばたばたする家にいるのはしのびなく、レー郊外の宿に移りました。

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電力が不足していた当時のレーは、夜になると計画停電で灯りが消えました。郊外の宿は周りになにもなく、夜は本当に真っ暗になり無数の星が落ちてきそうな夜空が広がります。

満月の夜、外を散歩していて、月明かりで地面に影ができることを知りました。

その何度か前の満月のころ、東京で、ある訃報を聞きました。なにをどう考えてよいのか分からないままでした。好きな人の、恋人が、死んだ。

レーの空気は澄みすぎて、月が明るすぎて、遠くに見えるヒマラヤの荒々しい山肌も、雪を抱いた連峰も、まるですみずみまでピントの合った写真のようにくっきりと見渡すことができました。

そのなかを、ふわふわした白いなにかがしきりと舞うのです。道に沿って植えられているのはポプラの木。ラダックの短い夏の夜空に舞う、それは雪のような、ポプラの綿毛でした。足元にはキンと冷えた小川のせせらぎ。

人の命ははかない。

眠れずに夜通し眺めていたその光景は、この世のものとは思えぬほど美しく、いっさいの邪気がなく、いや、なさすぎて、恐ろしい風景でした。

もうすこし、あともうすこしだけ。

帰国するなり仕事を探すなりなにかしらの行動を起こすべきなのに、ただもう落ち着いて一か所にいることがいたたまれない。どこにも所属したくない。ひとりでどこかへ雲隠れしたい。雑踏に埋もれて存在を透明にしたい。

大放浪時代の幕開けはそんなふうに始まりました。

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※注: 「ジャンムー・カシミール州」についてWikiより転載
ジャンムー・カシミール州再編成法の規定により、2019年10月31日付けでラダック連邦直轄領とジャンムー・カシミール連邦直轄領に分割されて連邦政府直轄領となった






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