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やがてマサラ #22 跳んで下克上

皆さんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれることになったのか? 生い立ちから始めて46年間を振り返るのは予想以上に長くなりました。

さて5年間の大放浪を経て、ロンドンから陸路と海路で本帰国。近現代史、行ってみよーっ!

難航する就職活動

ロンドンから3週間かけての道のり、シベリア鉄道の1週間で散々「暇だ、暇だ!」と言い続けたあとであります。働く意欲満々です。なによりオカネがまったくありません!

ロンドンで日本語教師の資格を取り、日本人女性と親しくなりたいお金持ちの中年男性向けに力の限り「口説ける日本語」を教えてさしあげた経験が私にはございました。私が習ったのは直接教授法という理論で、媒介語(英語など)を使わず、日本語を日本語だけで教えるメソッドでした。

海外で語学学校などに行った方は分かると思うのですが、言語を学ぶのに母語での解説は必ずしも必要ではないのですね。ゴリゴリの外国語大学出身でゴリゴリに日本語の解説つきで学んだ私自身も、教室で文法を含め習った言葉よりも実践で「ピタリ」という状況で誰かに言われた言葉のほうが何倍もアタマに残り、自分の血肉となるというのが実感です。言葉はリズムであり肌感覚であり、理論というのは後からある日突然腑に落ちて理解できるものだと思います。

日本語を教えていたときの教材はすべて手作りでした。生徒さんは皆さん独学で日本語の勉強をしたことがあり、ある程度の下地がある人ばかりだったので、レッスン中は私からの発話はすべて日本語。その人がどういう状況で女性と知り合い、どういう状況で日本語を話したいのか? という場面状況設定を徹底的にカスタマイズしたレッスンで、おかげさまでとても好評をいただきました。

……というのはともかくです。日本語を教えるなら、やはり自分がやってきた直接教授法で、できるだけ学習者のニーズに即した実践的なレッスンをしたいという希望がありました。ところが帰国早々に日本語教師の職を探し始めた私は、ある事実の前に打ちひしがれます。

お給料が、安い。

どこかの教育機関所属の日本語教師の口を探すには中途半端な9月末というタイミングもありました。あるのは時給で働く募集ばかり。そのお給料が、とっても、お安い。

おまけに(よく考えれば雇う側からしてみたら当たり前なのですが)シラバス(授業計画)はすでに決められており、教材も雇い主が指定するもの。

最初から理想通りの就職先はないだろうと思ってはいたものの、履歴書を送っては「ちょっと思っていたのと違うなー」という思いは日に日に強くなり。先方様からしてみても欲しい人材ではまったくなかったと思いますけど。

理想の日本語教師はゆっくり探すとして、とりあえずは英語を武器にバイトをしようということで、外資系の会社に強いという派遣会社に登録しました。TOEICも受験したりしましたが、就職活動を一度もまともにしたことがなかった私には、果たしてその得点が外資系企業という売り込み先に有利なのかそうでないのかもわかりませんでした。

アパレル、出版、物流、貿易……。派遣会社の担当者は熱心に売り込みをかけてくださいましたが、私の履歴書の決定的な弱点はやはり5年間のブランクです。おまけに新卒で就職した会社は正規雇用は1年で辞めていますし、PCスキルもブラインドタッチが異様に早いくらいで(いにしえのパソコンおたくですのでね)WordやExcelが得意というわけではありません。

「この会社、書類審査で2回落ちてしまったのですけど、2週間の短期でまた募集があるので、受けてみます?」

と言われたのは外資系の証券会社でした。聞けば証券会社には当局の検査というものがあり、その検査期間中の臨時事務要員の募集とのこと。2週間限定でもなんでも、すぐに働き始めないと来月は即路頭に迷う逼塞ぶりですので、もちろん「受けます!」と即答。

派遣会社の規定のスキルシートにはすでにTOEICのスコアを記載し、並べて「ケンブリッジ英検Proficiency合格」とあったのですが、悲しいかなケンブリッジ英検の知名度は日本ではあまり高くありません。"Proficiency"はネイティブでも難しいと言われる最難関なのにいまいち分かりづらいので、持参する自前の履歴書には「ケンブリッジ英検"特A級"」とフォントサイズを上げてデカデカと記載しました。

わらしべ面接

その会社はオフィス街のとても立派な高層ビルにありました。通されたのは、のちに私自身も何度も採用面接をすることになる眺めのいい会議室。それまでそんないかにも「デキる」感の漂うオフィスで働いたことなどありませんので、とても緊張しました。

約束の時間を過ぎても担当者は現れません。なぜか、同行してくれていた派遣会社の方が呼ばれます。2度、書類審査で落ちている会社様ですから、やっぱりキャンセルと言われるのかなと頭をよぎりました。

そして入ってきたのは、ピシっとスーツをお召しになった上司とその部下だという女性ふたり。職歴など聞かれたことに淡々と答え、金融とはまったく無関係なので話が続かず、3分程度で先方の質問は終わり。あとは5年間ふらふらと海外にいたことや、旅の話などをしました。まあ偽ってもしかたありませんので、正直に。どのみち2週間の命ですので、最初こそ緊張したものの、気楽な世間話のつもりでした。

「この"特A級"ってどういうもの?」

上司の女性が唐突に私の履歴書を示してお尋ねになりました。これこれこういうものですと説明します。

そしてなぜか、私は採用されました。2週間の臨時雇いではなく、3か月ごとに更新される部署付きの派遣社員として。

あとで派遣会社の方に聞いたところによると、別の採用面接をしていた方たちが、なかなかピンと来る人がおらず、ふと目についた私の履歴書の"特A級"を見て「この人こっちに回して」とリクエストされたそうです。

そう、私は知らない間に違う部署の違う面接を受けていたのでした(笑)。

聞けばとにもかくにも英語力がある人を探していたとのこと。

かくして私は、2度落ちた会社に派遣されることになりました。非常勤の日本語教師よりもはるかに良い時給で。

なんでも派手に宣伝しておくに越したことはありません、ハイ。

右も左もワカリマセン

初出社は11月1日。ほんの1か月前まではリュック背負ってビンボー旅をしていた身ですし、5年ぶりの会社勤めですし、忘れていた朝の通勤ラッシュは相変わらず。加えて、まったく門外漢の証券の世界。

SQ(特別清算指数)と聞けば「シンガポール航空のコード?」とか、NRI(野村総研)と聞けば「在外インド人(Non-Resident Indian)?」とか、かなり頓珍漢なことがアタマをよぎる使いづらい人材だったと思うのですが、面接のときにお会いした先輩は辛抱強く私に仕事を教えてくれました。まだ20代の若い方で、証券業を心から愛し、証券には夢があると日々うっとりと仕事への情熱を語ってくれるよき先輩でした。

仕事は日々のルーティーンのほかに、とある改善策のための大規模な残務処理。大量のデータを分析し答えを出して、粛々と体裁を整えていきます。同時にシステム開発のためのシドニーやシンガポールとの連日の電話会議。ただでさえ未知の業界の仕事を英語でこなすのは恐ろしくハードルの高い仕事で、いかに試験でよい得点を出そうとも、そこから「仕事」で使えるレベルまで持っていくのは予想以上に大ごとでした。とはいえ、ロンドン時代のガリ勉が意外な形で報われたには違いなく、持てる能力を即活かせたのはとても嬉しいできごとでした。

下克上の始まり

年明けて2007年。「社員にならない? 年俸はこれ」と上司に差し出されたオファーレター。見たことのない数字が記載されていました。実はまだ日本語教師の職探しはしていたのですが、その場で「はい」と即答していました。ロンドン時代にあれほど頑張って身を粉にして働いて得ていた額よりゼロがひとつ多く、それはどんなに優秀な日本語教師になれたとしても、決して得ることはないであろう額でした。

「あの、私でいいんでしょうか。この業界にはまだ2か月しかいませんけど」
「いいじゃない、こういうのはタイミングだし、せっかく予算もおりたんだし。嫌になったら辞めたらいいわよ、とりあえずやってみたら」

上司はにっこり笑顔です。なにごともノリとタイミングといいますが、こんな素性の知れない人材にそれだけの年俸を出すなんてこの会社は大丈夫なのだろうか? と本気で思いました。英語は得意です! と鼻息荒く書いた履歴書からこんな展開になるとは誰が予測できたでしょう。

サンドイッチをキュウリにするかハムにするか悩んで、1.5ポンド安いキュウリにしたこと。来月の生活費をどこからどう捻り出すか。ロンドン時代はほんとうに四六時中オカネのことばかり心配していて、オカネのありがたみは身に沁みていました。高額の年俸に魂を売ったなと思いつつ、こんなチャンスは滅多に降ってこない、逃してたまるか! という気分でもありました。

お給料が振り込まれて最初にしたのは、近視治療のレーシックとシミのレーザー治療。以前から眼鏡やコンタクトがないとまともに動けない自分のド近眼に危機感があり、とくにインドや海外暮らしで災害を目の当たりにしたときに目が満足に見えないというのは命に関わると思っていたのでレーシックを受けたのですが、視界がクリアになったら今度は自分の顔の荒廃ぶりが耐えられませんでした(笑)。

とにもかくにも、賽は投げられてしまった。あとは清水の舞台。いや身投げしている場合ではありません、本腰入れてこの業界で生きていかなくては。そんな決意を胸に、私の極私的な下克上が始まりました。まさか10年もその会社にいることになるとは、そのときは知る由もなく。

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