小惑星『ペイン化粧品』にて


ある作家が人間種は滅んだ方が良いと何度目かの確信を得たのは7時のことだった。
作家が小惑星「ペイン化粧品」に移住してから半年近く経過した矢先、フラッシュバックした記憶が作家を苛み始めた。
このようなことは移住してから稀に起き、その度に作家は煩わされた。
しかし、元いた場所よりははるかにマシだと思い、それを耐えていた。

作家は以前、小惑星「ペイン化粧品」から遥かに離れた地球という惑星の原住民だったがある時を境に住民であり続けることが困難になった。
理由は星の数ほど存在したが一番強い理由は地球が作家にとって住み良いものでないことだった。
誰かが正しいことを言いそれに対してまた正しいことを言うという繰り返し。人間らしい営みに作家は入り込めなかった。
だから距離を取った。出来る限り、大勢の人間から。それでも作家の元に人はきた。
何人もの人と関わり、疲れ果てた。

限界がきたまず最初。作家はこの世から去ろうとした。
しかし、想像力と信じ込む能力は死という救済想像を作家から葬った。永遠に。
そして妥協の結果、小惑星に一人住むことにした。幸いにもまだ人が住んでいない小惑星は簡単に見つけられた。へんぴな場所故か安く手に入れることも出来た。
それから間もなくいるものだけまとめて一人静かに地球を去った。

小惑星「ペイン化粧品」は一人が住むには十分な大きさを持ち、掘建て小屋を建て暮らし始めた。

小惑星での生活はストレスの少ない静かなものだった。
一人で起き、食べ、読み書きし、寝る。そんな毎日を過ごした。時折地球の記憶に悩まされながらも、作家としてはそこそこ平穏に楽しく暮らしていた。

しかし、その平穏はある日ノックで崩れた。
その日、作家は露和辞書片手に«Москва — Петушки»を読んでいた。
無視して読書を続けたかったが、何度も何度もノックは繰り返された。
分かりやすい他者の存在は作家を悩ませたが結局相手を無視し切ることが出来なかった。
仕方なく扉を開けると玄関には、見知らぬ誰かが立っていた。上下黒の地球服を着た特徴といったものが特にない青年。

「何か御用ですか」

青年は開口一番に言った。

「あなたを人と関わらせるよう命令されました」

作家は納得した。目の前にいる存在は地球にあるよくできたサービスの一つ。
恐らく誰かが作家の為にと依頼したのだろう。

「貴方は人ではないんですね?」
「形は人ですが、そうです。他のどうぶつの方が良かったでしょうか?」
「いや、良い。生き物は皆嫌いだ」
「そうですか」
「そうだ。だから早く消えてくれたら嬉しい」
「それはできません。私は貴方を人と関わらせるよう命令されていますから」
「そうか」

作家は持っていた露語辞書で相手を殴打した。相手は何かを言う間もなく倒れた。
物体と化したそれを家から出して作家は読書を再開した。

それからもそのサービスは作家の元へやって来た。
姿形は常に違ったが声だけは常に一緒でそれが余計に作家の癇に障った。
ある時は青年に、ある時は少女、少年に、そして老年、人の形を成していない怪物、etc……。
作家はどれもこれも殴り殺し、打ちのめした。気付けば家の近くに山が出来る程に葬り去っていた。
それでもサービスは来た。変わらずに淡々と。

サービスは同じ質問を繰り返し作家に尋ねた。

「何故あなたは現実の人間と関わらないのですか」
「必要以上に関わりたくないんだ」


「何故あなたは現実の人間と関わらないのですか」
「そもそも私は誰かとは関わっているだろう。読書なり、音楽を聞くなりで」
「それは他者との交流ではありません」
「そんな理屈知るか」

「何故あなたは現実の人間と関わらないのですか」
「鬱陶しい。しつこい。余計なお世話だ」

否定が続き、非難は絶えず、殺意と嫌悪は終わりなく果てしなく。

サービスは、以前いた人々に似ていた。きっと同じような種類の人間が作ったからだと合点がいった。

ある日ぱったりとサービスは来なくなった。
ついに諦めたのかと作家は欣喜雀躍し、読書に勤しむようになった。
それから何日もサービスは来なくなり、やがて日常になった。
ある日サービスが大挙して押し寄せるのではないかという作家の想像は杞憂に終わった。
何事もなく平穏な日々が続く。当たり前のように続く。

望んでいた日々が漸く手に入った。
しかし、作家の心は徐々に現状に飽いていった。

「手に入ってしまえばそういうものだ」

作家はそう思って飽きた日々をやり過ごした。退屈は降り注ぐ雨のように浸透する。徐々に心身を削り、疲弊させる。

衰弱しきったある日、何の前触れもなくサービスが訪れた。作家が最初に見た時の姿で。
衰弱した作家を見ても表情一つ変わらない。


「あなたは何をしているんですか?」

作家は何も言わなかった。

サービスは勝手に続ける。

「何度あなたとやりとりを交わしても、あなたが分かりません」

「あなたがまるで理解できません。不可解です。あなたはどうしてこのような場所で生活を営めるのか、適応できているのか、全く分かりません。あなたは地球人らしい生活を送りたいと思わないのですか?」

暫くの間。

「なぜ、あなたは何も言わないのですか?」

再び間が開く。
作家からもサービスからも言葉は生まれない。何かを待つように、押し黙り、やがて何も生まれなかった。
生まれたのはまるで地球から冥王星までの距離のような無音の間。

当然そんな間は保たない。
そのことに気付いた作家は仕方なく口を開いた。

「全く聞くに堪えない……。押し付けがましいにも程がある。
お前が言う地球人を私はとうの昔にやめてしまっているんだよ。ここに来る以前から」

「何を言っているんですか? あなたは地球人ではない?」


「そうだ。……少なくともお前が考えている地球人では断じてない」

「お前の言う、人間の括りにすら入りたくない」


作家は一番言いたかったことを言って押し黙った。言うべきことはもう何一つ無かった。

「ああ、そうですか」

サービスは何かを得たように肯いた。
それからサービスは去って行った。

去っていく姿を見て作家は安堵した。
それから作家は引っ越すことに決めた。
小天体はまだまだある。別にここでなくても暮らせる場所は見つかる。

「次はもっと遠いところに行こう。遠く、誰も行こうと思わない場所に」

作家が次に目をつけた小天体は「ペイン化粧品」よりもさらに地球から離れた小天体「イスカンデール」。
移り住むことに迷いはなかった。

作家が最初小天体「イスカンデール」に降りた際、地球の夕日のような光景が見られた。
これから何度も見ることになるだろう光景は、何処か禍々しい美しさがあった。
何処までも赤い空。太陽に似た二つの天体が遠くに見える。
太陽に似た天体は空よりも赤く、煌々と輝いている。

これからきっと何度も見る光景に作家は満足して新しい家へと入っていった。


次の日、何の予兆もなく作家の家の近くに家が出来た。
その家からは、以前見たサービスが出てきた。

サービスは以前見た上下黒の地球服を着た特徴といったものが特にない青年の姿だった。


サービスは再び、作家の前に現れ言った。

「きっとあなたに必要なものなのは同胞でしょう」


「わたしもあなたと同じ惑星に住人になることにしました」

「これからよろしくおねがいします」


作家の口角が吊り上がる。
しかし、それは愉快な感情によるものでは決してなく。

唐突に、昔読んだ教科書の台詞が脳裏に浮かぶ。
そうか、きみはそんなやつなんだな。

そんなやつなんだ、目の前にいるサービスも。
少なくとも作家にとっては。


「御免だ」

作家はいうが早いか、見慣れた来訪者を殴りつけた。


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