箱人隣人

隣人を初めて見た時まず安部公房が頭を過って、それから開けてみたいと思った。ぴったりと閉められた箱を。

誰だって思うことなんだろうけど、自分もそうだった。
今も鮮明に覚えているんだ、初めて会った瞬間を。
何の話かって?
これから話すのは以前住んでいたアパートでの隣人の話だ。
そこの人、出来ればどうか聞いてほしい。貴方だ。
これはもしかしたら目の前の貴方にも関係があるかもしれない話なんだから。

隣人は一風変わった人物だった。外見からして周囲の人間と違っていた。
まず、頭部がダンボール箱だった時点で。
ダンボール箱。
比喩じゃなく実際に四角い茶色のダンボール箱をすっぽり頭に被っている状態で隣人は生活を営んでいた。最初に見かけた時は思わず声を掛けてしまったくらい、その様は異様に思えたよ。
よく目撃証言なんかは聞くけれど実際に目にするのは中々珍しいことだよね。箱を見るのって。
日本人の人口の4割くらいに箱がいるらしいんだけど、街中で会うってことはあまり無い。自分も本当にいたんだという気持ちでいっぱいになったし、結構日常で関わり合うタイプではないよね。

そもそもどういうものなのかすら分かってない人も大勢いるし。
でも大体誰かに仕えるナニかと言われている。
けれどハコ夫は誰かに仕えているって感じではなかった。

恐る恐る話しかけた時も、そう。
支配される側っていう存在らしくなかったんだよね。


「あの」
「ん?」
体格や低い声から、男性と見当付けた。実際はどうなのか全く知らないけれど。
「……何故ダンボールを被っているんですか」
「被って無い。生まれ付きこんな顔なんだよ」
「……はあ」
当たり前のようにそう言われ嘘っぽいなと思ったファーストコンタクトだった。

それから隣人と時折話したりするようになったんだけど、
その当時の自分が、他人に興味を抱いたのは久々の事だった。自殺を考えるようになってから死以外に関する好奇心。
隣人とは取り留めもなく様々なことを話した。
一度頭であるダンボールの詳しい大きさを聞いてみたことがあるが「規格?知らん。知らなくても困らないからな……」と返された。自分自身について詳しく知っている人間は少ないが彼も例に漏れずそうだった訳だ。
それなりに会話をしたが、結局自分は隣人の名前すら知ることはなかった。
内心でハコ夫と呼んでいたが、実際に呼んだことは一度も無い。
外見のせいなのか性質的な問題なのかハコ夫は職に困り、生活に困っていた。時折金をくれと冗談のように言われたことがあったが今から思うとかなり切羽詰まっていたのだろう。やがて度々ガラの悪そうな人が部屋を出たり入ったりするようになった。
一番頻繁に訪れた人なんか顔が顔に刀傷みたいなのがあって、怖くてね。でも服装がやけにポップで明るいパステルカラーのシャツ。
名前が分からないので適当にポップさんと呼んでいたけれど、日替わりでやけにカラフルでポップな印象のシャツを着て、いつも怒鳴ってハコ夫の部屋を出て行っていた。
最初、自分はポップさんをヤクザか何かだと思っていたのだけれどヤクザはあんな恰好ではないだろう。大体黒服なんじゃないの、ああいう職業って。


そんな日々が続いて、ある日。
一際目立って機嫌が悪そうに見えた。
傍目から見ても、恐かった。正直言って近寄りたくない。ぶつぶつと見えない何かしらに怒りをぶつけたい人とか日常生活を営む上で避けて通りたいものだよ。
ただそれが隣人だったから、らしくなく聞いてみたんだよ。
「何かあったのか」ってね。
ハコ夫はこう返した。

「うるせえ殺すぞ」

勢いのままに出た殺意。決して実行されることはないだろう言葉。
普通に傷ついたし、悲しくなった。
しかしそれとは別にある考えが頭に浮かび、離れがたいものへと変わった。

自分はその日から隣人に殺されてみたくなった。

それからのライフワークに隣人に殺される妄想が追加されてしまったのはだからまあ仕方がないことだった。
別に妄想くらいなら罪は無いだろう?
貴方にだってある筈だ。誰にも言えない妄想くらい。
にしても当時本気でそう思っていたということを鑑みるに、自分も何気に限界だったんだと思う。日々の生活や人生で。生きるってことは本当精神に悪影響だね。
それくらいだったら良かったんだけれど、日に日に妄想は具体性を増していった。それにつれて殺されたいという想いもより強いものへと高まっていく。
鈍器で撲殺される瞬間、高所や駅のホームから突き落とされる瞬間、ビニール紐で首を締めあげられる様を鮮明に想像して、身を震わせたことが何度あったか。
その妄想ははっきり言えば非常に心苦しいものだった。


大家からハコ夫が出て行くと聞かされた。何処へ行くのかと尋ねたが知らないと素っ気なく言われた。

出て行く。隣人が。

冗談じゃないと思ったよ。今出て行かれたら殺されないじゃないかって理不尽に怒りもした。その時は当然の怒りだって思っていたんだけどね。

だから自分はその日ハコ夫の部屋を訪ねることにした。
自分にしては珍しく迅速な行動だったと思う。

インターホンを何度か押して、「勝手に入れ」というぶっきらぼうな声がした。
鍵は掛かってはいなかった。
その時自分は初めてハコ夫の部屋に初めて立ち入った。

自分と同じ四畳一間の空間。
所々に薄汚れた部屋着類や積み重ねられた文庫本の山。空になって放置された缶ビール、ストロングゼロ。何処からか饐えた匂いがしたりして、でも何処からのものか判断が出来ない。匂いの元になりそうなものはその辺りにあったから。生活感があり過ぎてちょっと困惑した。

生活感と生々しさに満ちた空間にハコ夫はいた。片膝をついた姿勢で坐り、顔を伏せていた。
どうしても拭いきれない違和感みたいなものを感じさせた。自分はハコ夫に対して無機物のようなイメージを持ちすぎていたんだろう。
彼も生物だったのにね。近付いても特別反応は無くてどうしようかと思ったよ。

段々と冷静になってきて部屋に入ったことを後悔し始めた。
後悔するなら最初からやらなければ良かったのにね。
自分もハコ夫も何も言いださないまま暫く無言の間だけが続いた。
ちゅうぶらりんになったような不安。
何を言い出して良いのか分からない時、貴方だったらどうする?
話せる瞬間を作れるのも一種の才能だと思うけれど、ハコ夫はそれに近いものを持っていたと思う?
自分?
自分は全然全く。


やがてハコ夫はこんなことを言い出した。

「金が無え」

ぼそりと開口一番。真っ先にこれだ。
どうしようもないよね。
続けて言った。

「仕事も無え。ついでにツテも生活能力も人間性も何も無え。無用者っつーのはオレみたいなヤツを言うんだろうなぁぁ……」

「なあ、本気で言うんだけど金貸してくんねえ?」

ダメダメだった。言われた側はどう言えば良いかまるで分からない。
何で入ってきたのだとか出て行けだとかそういうことを言うことも無く金を無心する。
そして無用者という言葉は自分にも当て嵌まった。今も昔も変わらずぴたりと当て嵌まったまま。
何言ってるんですか、とかふざけているんですか、とかがこの場合適当な言葉なんだろうね?

ただそれはその時の自分の口からは出なかった。
出たのはまるっきり違う言葉。

「お金とか」
「殺して奪って行けば良いじゃないですか」
「お前をか」
「ええ」
「馬鹿言うな、足が付くわ」
足が付かなければ殺してくれるのか、と思ったけど黙った。

満ちる静寂。自分もハコ夫も一言も発しない間。

「死にたいのか?」
「はい。自殺も考えてます。」

「…そうか」
淡々と受け止められた。
再び沈黙が満ちる。
「オレはここを出て行く」

「出て、どうするんですか?」


何も無いのに。ここを出たって何も。

「取り敢えず出て、考える」

すっくと立ち上がり、ハコ夫は言った。その時の言葉を、自分は一言一句忘れていない。
今もはっきりと覚えている。きっと自分が終わるまで忘れることはないだろう。
貴方も、ひょっとしたら人生で何度か聞くことになるかもしれない何かを諦めたような響きを持つ言葉だ。

「行くしか出来ねえんだよ。行って行って行って、歩いて走って進む。それしか出来ない。戻ることなんて出来ない。大多数が進む以外の行動出来やしないんだよ」
「進め。進むしかない。オレもお前も」

中々重みのある言葉だと思うんだけど、貴方はどう思った?
自分はこの言葉で自分は何か改心して、真っ当に生きることが出来て…なんてことが出来てればよかったのにね。
まあそんなことは起きなかった。

自分はハコ夫に聞いたんだよ。「ここに戻って来ますか?」ってね。
そしたら案の定ハコ夫は機嫌を損なってしまった。

「何でだよ。折角進むための決意表明を述べたのに……。
まあ、やっては来るかもしれない。いつかの話だ。いつかはきっと来る。単純な事実として」

矢張りよく分からない自信みたいなものがあった。その自信は明らかにハコ夫を強化していた。
そんなハコ夫を前にしてある言葉が頭に浮かんだ。
浮んで消えず、染みのようにある言葉が一点、自分の全体に染み込んで行った。

『狡い。』

我ながら酷いヤツだよね。
まるで貴方だけ、抜け出して行けるみたいだ、とか、諦めず、真っ直ぐに歩いて行けるなんてそんな、とか、箱の分際で何生意気なとか。
それがたったの一瞬だけの悪意に終われば普通だったんだろうけど。

一瞬の悪意が暴力に変わるまで数秒くらいしか掛からなかった。


揉み合いになり自分はハコ夫を床に倒した。そのまま馬乗りになり、衝動のままハコ夫を殴った。
ハコ夫は突然の暴力に何の対処をすることも出来ないまま殴られ続けた。今思うとあえて抵抗しなかったのかもしれないと思わなくもないけれど、その時は頭に血が上っておかしくなっていたから全く疑問を覚えることなく殴り続けたんだけど。

そして自分は殴り続ける内にこれは箱を開ける最後のチャンスだと直感した。これを逃したら一生中身がなんなのか分からないままハコ夫を別れてしまうってね。

だから、自分は勢い良く箱を開けた。
躊躇せずに開けた。

箱の中には何も入っていなかった。見事に空箱だった。
何か入っているものだろうと思っていたけれど、期待を裏切られてしまった。
それからピクリともハコ夫は動かない。
開け放たれたショックから動かないのかと思ったがどうも違うことに気付いた。生きている感じがまるで失われ目の前にあるのはもう物体だった。
動きはしない。放っておけばきっと腐り果てるだけの物体。

後悔した。

「なんてことをしてしまったんだ…」
殺されにきたのに殺してしまうなんて想定外にも程がある。そして目の前にただ釘付けになってどうすることも出来ず佇むだけ。
馬鹿だよね。
そしてどれだけ経ったか、部屋に人が入って来た。
以前見た柄の悪そうな人物、ポップさんだった。
ポップさんは部屋に広がる惨状を見て顔色一つ変えず、ただ一言自分に「誰がやったんだ」と聞いた。場に不相応な冷静さで。

「自分です。自分がこの手で開けて殺してしまったんです…」

童謡に出てくる雀のように、正直に全てを話した。許して欲しいと懇願しようとした訳じゃない。ただ単に自分自身でもよく分かっていなかった。だから自分を納得させるためだけに話をしたのかもしれない。ポップさんはそんな自分の話を最後まで聞いてくれた。

「ははあ。…コイツは逃げられるとでも思っていたのか?なんて馬鹿な……現状が見えていないにも程がある………」

「じゃあ、お前が今回の代わり、か」

「はい?」

何の事なのか尋ねる前に。

すっぽりと。
頭部に。
ダンボール箱が被せられた。
箱が視界を覆う。抵抗の余地もなく完全に。薄暗く何も見えない。ダンボールであるにも限らず真っ暗闇に放り込まれたのと同じような体験をした。
身体がガクガクと震えた。それを自分で抑えられない。まるでいう事を聞かないんだよ。
感覚が単純なものに一つずつ置き換わっていく。ぷちりぷちりと脳細胞が潰れていくような錯覚。自分ってものの芯が抜かれて別のものをゆっくりと挿入し掻きまわされる。頭が強大な渦に飲み込まれたような気がした。
何で、どうして、って思ったし、疑問を抱いたけれどどうすることも出来なかった。
叫んだかもしれない。泣いたかもしれない。理不尽に怒ったかもしれない。
でももう覚えてない。
どれだけの時間が経っただろう。気が付いたら元の視界が戻っていた。


茫然とする自分を無視してポップさんは言った。

「返せよ、アイツの代わりに箱として。耳揃えてきっちりとな」

何を返していけば良いのか、とすら問う前にすんなりとポップさんの言葉を受け入れた。

箱として。
当たり前と言って良い態度だと思う。

それでこうして貴方の前にいてこうして喫茶店なんかでくっちゃべってる訳だけど。
そろそろ貸したものを返してくれる気になった?
それか自分の代わりに箱をやってくれない?
もうそろそろ限界なんだよね。
貴方で丁度41回目になるんだけど、どう?


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