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良貨なんていらない。

さっき、友人と話していた話の答えは、5年前に自分で書いていた。

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つねにネットで話題になる発言をする人を「ある種のコンテンツメーカー」だと思っていたんだけど、そうじゃないんだな。それはB級グルメの構造に近くて、意図的であろうとなかろうと理解力の低い人でもわかるB級のコンテンツを提供しているから、マスが動くということだ。

B級という差別表現もしくは自虐を、声高らかに自称したり礼賛したりする人が出てきたあたりで「これはもう地獄との壁が決壊した」と思っていたんだけど、決壊したポイントが見えたおかげで、何かとてもスッキリした気分だ。

B級という思考は複雑で、ストレートなモノ、ひねったモノなどに細かく分類される。

まず、世の中にA級(という表現もどうかと思うけど)があると知らない純血ストレートタイプ。何を見てもセレブ、何を見てもオシャレ、何を聞いても「深い」という種族だ。害がないというか、まあどうでもいい。

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ちょっとタチが悪いのが、A級の存在はうっすら知っているが、それを意識すればするほど補償作用としての自己弁護のために「あえてB級を選択しておりますが何か」というポーズを崩さないタイプ。長年そう主張しているうちにB級区に住民票ができてしまい、同時にサブカルの戸籍を持っている場合も多い。

この両方もしくはさらに別のタイプのB級を足すと、マスになる。そしてマスは当然のことながら世論と呼ばれるようになる。世論が肯定するモノを間違っているとは誰も言えないわけで、そこに目をつけた「A級の商売」が出来る人は羊の皮を被ったまま、原価がただのようなモノを売りつける商売を始めるだろう。

「それの何がいけない、我々は好きで買っているんだからどんな48でもいいじゃないか」と言われるんだけど、それは圧倒的な悪貨として良貨を駆逐し始める。マスが「良貨なんていらない」と言った時点で文化も伝統も死ぬんだから死ねばいいのだと思う。僕の好きなモノはB級ですと宣言をする人に、A級を求めよと進言する方法は残されていない。

そこに必然とも言える格差社会が生まれ、歴史上、誰も成し遂げられなかった「完全なる共産主義」が生まれる。格差の底辺にいる人が喜んでピラミッドの頂上へと小銭を運んでいく。喜んでいるからいいのだ。

マルクスやレーニンが知らなかったのは「資本主義が究極まで発達すると社会主義を飛ばして共産主義へ向かう」ということだったのだ。実はピラミッドは尖った三角ではなく、ギアナ高地のテーブルマウンテンのような形をしていたのだ。

「モノを持っていない人ではなく、持っているのにまだ欲しがる人を貧しいと言う」という名言があるけれど、まさにそれだ。A級のモノに囲まれて、自分が持っているモノはA級かどうかも意識せずにA級を生み出し、消費していく人と、A級との接点の無さという心の裂け目を埋めるために「むしろB級が良いのだ」と思いたがる人がいる。

俺は格差社会を「努力の結果」「能力の差」と肯定する人を見ると、貧しかったけれど自分がある程度山の上から人を見下ろせるようになったことを吹聴したくてたまらないんだろうなと憐れむ。山頂にいる人が水平な視線で見たら、自分よりもっと高い山が見えるわけで、謙虚にならざるを得ない。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。