見出し画像

私のビールを作る:PDLB

作る人と、批評する人は、なぜ対立するのでしょうか。

結論を先に言ってしまうと「最後に書いておく」です。矛盾があるかもしれませんけど、このポイントが理解できるかどうかが答えです。

「作る人」の定義はとても難しいですが、ビールを造る人と飲む人、あたりの簡単なところから始めましょう。あなたはビールを飲むが醸造はしませんね。そして美味しいとか、マズいとか言う。これが消費者の意見ということに異論はないでしょう。

メーカーは発売前にインタビューやリサーチをしてから製品として出荷しています。チームの中から「ホップの風味が強すぎるという意見が出ると思います」などというのは、すでに想定済みです。

だから製品になってあなたのテーブルに新製品のビールが置かれたとき「ホップが強すぎる」と言っても無意味で、これはホップが強いビールを好む層に向けた製品だからです。好みの層の売り上げ比率を計算して、この製品において切り捨てるべき層は無視するという経営判断がなされています。あなたの感じる不満は承知の上で、数に入っていないということです。

これが作る人と批評する人の立場の違い。あなたが完璧に自分好みの味のビールが飲みたいなら、それを探すか、最終的に自分で製造するしかありません。しかし、あなたはそこで絶望的な事態に直面するのです。

自分が理想とするビールを飲んだ人から「マズい」と言われます。

画像1

つまり、万人を満足させるようなモノは存在せず、好んでくれる人の割合が消費を決め、売り上げや利益に関わっている、と気づくのです。自分がマイノリティとしての好みを持っていることに批評的な自尊心を持っている人がいますが、その人たちは決して報われることがありません。彼らの需要が供給する側から見向きもされないからです。

越谷のイオンで、シュワンクマイエルとゴダールの映画ばかりやっていたら、潰れてしまいます。『鬼滅の刃』や『アナと雪の女王』を観たい人の方が圧倒的に多いからです。そこには市場原理が働いています。ですからマーケットの隙間を縫うような場所として数十人規模のちいさな映画館ができ、マイナーな映画はそこで観ることができるようになります。

そのふたつの需要に優劣があるかというと、ありません。シュワンクマイエルも『釣りバカ日誌』も同じ『映画』という作品であり商品です。違うとすれば市場規模だけです。王様のブランチで「シュワンクマイエルが今週も興行収入が1位でしたね」と紹介されることはあり得ませんから。

そこにないモノを作り出すという立場と、目の前に置かれたモノを批評するという立場の違いはここにあります。自分が何を世界に対して提示したいのか。それが『オテサーネク』だったり『釣りバカ日誌』だったりするわけです。できたモノを受け取ってくれる人の数が映画制作の利益になりますが、それとは違った基準もあります。

「この映画があってよかった」と感じてくれる人がいるかどうか、です。作らない人は生涯そちらの基準が理解できないものです。著名な画家の絵が数百億円で売れた、というのはニュースになりますが、報道される部分はそれだけで芸術的な価値には触れられません。

こう言うと、それは作る側からのポジショントークだという反論が必ずあるんですがそうではない。たとえばこのnoteに何か自分の思ったことを数行書くことだって、バスキアの絵と同じ、作ることだからです。

「作るという戦場」に一歩でも足を踏み入れたら、感覚の違う人から、ホップが強すぎてマズいなどという批評を受けることになります。それを我慢して作り続けるか、我慢できないなら作ることをやめるかのどちらかしかありません。

さて、ここからが本題です。

ここから先は

698字

PDLB

¥5,400 / 月

PDLBについて。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。