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藤木さんと斉藤さん:博士の普通の愛情

自由が丘のカフェにいたとき、彼女の目が僕ではなくもっと遠くの人を見ている気がした。何度かそれを繰り返したかと思うとアンは立ち上がり、少し離れた席に座っている男に声をかける。アンと一緒に、男はカフェオレのカップを持って僕らのテーブルにやって来た。誰だ。

「こちら、藤木さん」

アンから話を聞いていた昔の彼氏だった。なぜここに連れてきたのかはわからないが、彼女はとにかく頭がいい人だからこの場がトラブルにはならない確信があるのだろうと思った。

「初めまして。タキです。アンから藤木さんのお話は伺っています」

僕は理由はわからないけど、先手を取らなくちゃ、と思ってそう言った。藤木さんは僕よりふたつ年上で、カジュアル過ぎないくらいに着崩した趣味のいいスーツを着ていた。

「俺もタキさんの話は聞いてます。ダンサーなんですよね」

僕が元の彼氏の話を聞いているのはいいが、なぜ僕の話をしたんだろう。それはタイミングがおかしいじゃないか。アンは全然そんな事実はないんだけど「帰国子女」みたいだなと感じることがある。僕らが勝手に思い込んでいるアメリカ人の、それも西海岸の女の子みたいにフランクであけっぴろげだ。時々それが僕を苛立たせる。

あるときアンが誰かと仲良く話していたことがあった。友人かと聞くと、今そこで会った知らない人、と普通の顔で言う。あまり社交的ではない僕の劣等感なのかもしれないけど、そういう小さなことの積み重ねが、ひとつずつは本当に羽毛のように軽いんだけど時間が経つにつれて質量を持ってくるのを感じる。

アンは僕と付き合い始めてからも藤木さんと連絡を取っていたんだろう。そういうことには何も感じない人だということはわかっている。でも僕にはその羽毛が手のひらに乗った感覚がわかる。軽くてもゼロではないんだ。

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「このカフェ、昔は別の名前だったよね」

藤木さんが言う。僕は初めて来たのだが、アンがここにしようと決めた。つまり藤木さんとアンは一緒に昔からこの店に来ていたということだ。わざと言ったんだろうか。僕は自分のジェラシーがどこまで懐疑的な妄想なのかがわからなくなることがある。もし僕が昔の彼氏だったら今の彼氏に対してこんなわざとらしいマウントをとろうとするだろうか。結論は出ない。人それぞれとしかいいようがないからだ。

「タキの前で昔の話をしないで。無神経ね」

驚いたことにアンがそう言った。彼女のバランス感覚の鋭さはこういうところにある。知らない男と親しげに話すのもアンだし、僕の嫉妬を見抜いて昔の彼氏をたしなめるのも彼女だ。

「僕、ダンスとか全然わからないんですけど、タキさんはどんなダンスをやっているんですか」

「いわゆるヒップホップダンスです」

「へえ。まったくわからないな。『フラッシュ・ダンス』は観たけど」

「いつの話してんのよ」

「あれはまたちょっと違いますけどね」

『フラッシュ・ダンス』から数十年分を説明しても最終的に僕がやっているダンスに辿り着く気がしなかった。たいして興味もないのに社交辞令のように相手の趣味を聞き出そうとするタイプの人が苦手だ。僕は自分が知らない分野のことは聞こうとしない。説明するのがイヤになっている相手からはどれだけ微細な表情も見逃さない。

アンは窓の外を見ていたが、小さな声で「マジか」と言いながら店の外に出て行く。僕は藤木さんとふたりで取り残されるのだけは勘弁して欲しかったから、さっきから、「アン、トイレには行くなよ」と願っていたんだけど、いきなりその瞬間は訪れた。ここでも藤木さんは社交的なマナーとして僕に話しかけてくる。

「何でしょうね。出て行ったけど」

「ああ」

あなたとは話したくないんですという僕の気持ちは、このカジュアルにスーツを着崩した男には伝わっていないんだろうか。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。