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妻の侮辱:博士の普通の愛情(無料記事)

Paul Haggisの『CRASH』という映画をご覧になった人は多いと思います。群像劇の名作です。その中でマット・ディロン演じる白人警官が、テレンス・ハワード夫妻を路上で職務質問するシーンが出てきます。人種差別であり女性蔑視の、思い出しただけでも胸が痛くなる場面でした。

警官は夫がいる目の前でタンディ・ニュートンに下品なジョークを言いますが、夫は何も言わずに耐えます。帰宅してから妻はその態度に怒るのですが、まさにアカデミー賞のウィル・スミスの行動を見て考え込んでしまいました。単純なことを言えば、マット・ディロンもクリス・ロックも、最初にそんなことをしなければよかっただけです。言葉によって傷つけられた人は謝られても元通りにはなりません。

アメリカのジョーク文化にはやや行きすぎたところがあり、ある程度の悪口や揶揄は大人っぽく受け流すのが「シャレのわかる人」であるという考え方があります。しかし度を超えた下品なジョークや容姿、人種を馬鹿にした発言が自分の家族を傷つけるのを見過ごすのは正しい愛情なのでしょうか。映画の中のテレンス・ハワードも奇しくも演出家であり、アカデミー賞での事件と似ています。さらに言えば彼らは賞賛されるべき立場であって、警官は裕福そうな黒人夫婦に対して屈折した感情を持っていることもわかります。

それらの状況を一旦すべて取り除きますが、愛する人が侮辱される行為に直面したとき、自分がどう抗議し振る舞うかを考えるいい例になったと感じます。映画では我慢し、ウィル・スミスは平手打ちをしました。様々な意見を読みましたが、妻の尊厳を守ろうとした立派な行動であるとか、何があろうと暴力はいけないなどというコメントが半々だったように思います。しかし神聖なアカデミー賞という場を汚した、というのはおかしな話で、彼らにとって世界中が注目する晴れ舞台だからこそ、妻を侮辱されたということが大きな傷になったわけです。

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愛情とは何でしょう。

自分の子供が犬に噛まれそうになって棒で殴ったら動物愛護の精神に反するのでしょうか。正当防衛や過剰防衛の話をするつもりはありませんが、当事者ふたりの謝罪コメントを読むと、どちらも「一線を越えた」という意味のことを言っています。ジョークとしての一線、公共の場での態度の一線、犬はリードに繋がれていることが社会の一線であるという保障のもとに我々は生活しているので、それを踏み越えることはしてはいけないと感じます。何も言っていないクリス・ロックをウィル・スミスは殴らないわけで、攻撃に対する対処の攻撃は「先手」がなければ生まれないのです。

正義と愛情は、時として矛盾をもたらすことがあります。それぞれにとっての正義がぶつかり合うと軋轢が生じることは誰にでもわかります。『CRASH』という映画の題名は、車をメタファーとした人と人との衝突を描いています。最後は過去にぶつかり合った人同士の連帯で終わるのですが、実際の社会はそううまくもいかないようです。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。