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Hiroshimas

1986年のチェルノブイリ原発事故が起きた頃、日本にも多くの原発があることを思うと本当にそれは安全なんだろうかと不安に思った。思うだけだと何も変わらないので、たくさんの本を読んだり、いくつかの原発に見学に行った。

敦賀に行った時のことは今でも忘れない。日本原子力発電株式会社(げんでん)の敦賀原子力館を訪れた。彼らは見学者に「原子力は夢のエネルギーであり、安全である」と説明していた。チェルノブイリの事故があったから余計にそこにチカラが入っていたのだと思う。

見学者のひとり、初老の男性が「日本の原発は本当に安全なのか」と聞いた。きわどい質問だと思ったのだが、彼らは自信満々な顔でこう言った。「あれはロシアの古い型の原子炉です。操作にも問題があったようだし、日本で同じような事故が起こるかと聞かれたら、絶対にあり得ません」と。

彼らは、そこから毎回繰り返しているはずの「安全である証明」を始める。

原子炉はBWRもPWRも高い圧力にも耐えうるステンレス製の圧力容器、その外側に原子炉格納容器(PCCV)と、二重三重にも安全性が考慮されているのでそのすべてが破壊されたらどうなるのか、などと疑うのは現実味がない、と言った。

言外には「科学を知らない素人がそんな心配をしなくてもいい」という感情がうかがわれた。つまり、時代遅れのロシアの原発と、能力の低いロシア人エンジニアがあの事故を起こしたのだと言いたそうな口ぶりだった。そしてそれは彼らの感情としては素直なものだったのかもしれない。我々は彼らと違って絶対にそんな事故は起こさないと、その時までは信じていたからだ。

フェイル・セーフ、フール・プルーフ、という考え方がある。

フェイル・セーフというのは誤操作や誤動作が起きたときに重大な事故に繋がらないように安全を確保するシステム設計のことで、機械は必ず故障するものであり、その場合でも被害を最小限にとどめようとする安全思想だ。

フール・プルーフは少し違っていて、意図的な誤操作さえも受けつけないシステム、「ブレーキを踏んでいないと車のエンジンがかからない」ような安全設計を指す。このふたつが機能している限り、事故は起こり得えないのであるというのが彼らの主張だった。

しかし、その数十年後に福島で壊滅的な事故は起きた。

圧力容器は壊れません、格納容器も壊れません、電源も喪失しないように複数のバックアップがありますと言っていたが、フェイル・セーフもフール・プルーフも無視して、すべては爆発してはじけ飛んだ。その映像を世界中の人が見た。

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敦賀に「個人的な取材」に行ったのは、チェルノブイリの事故から2年後の1988年あたりだったと記憶している。生まれて初めて敦賀という街を訪れた。公的な施設には電力会社の寄付であることがわかるプレートがはめ込まれ、人口の少ない地方都市にはそぐわないと思われる立派な建物が並んでいた。夕方に着いたので、その日は海岸に近い旅館に泊まった。

夕食までの時間、海岸沿いを散歩してみる。ところどころにモニタリングポストがあった。デジタル数字がそこにある放射線の数値を表示している。数分間じっと見つめていると、徐々に数字が大きくなる。もしも事故があれば、この数値がこのまま止まらずに増えていくのだろう。自然放射線の影響もあるので数値は常に変化し続けている。しばらくすると下がっていったが、ここに暮らす人は毎日この数字を見ているのだと思うと、心が安まらないだろうと心配になった。

旅館に戻ると、お膳にカニが載っていた。旅館のおばさんが「原電ができてからカニが早く大きくなるんです」と言う。これから食べるというのに、やめて欲しかった。温排水の影響で生育が早くなったのではないかと言うが、あまり気持ちのいい話じゃない。1981年には敦賀原発が面する浦底湾で採取したホンダワラから、通常より10 倍以上のコバルト60とマンガン54が検出されていた。

これを当時の敦賀の高木孝一市長は、世界中で問題視されるほど大したことではないと言った。彼は福井への原発誘致にこんな台詞を残している。

「100年経って片輪が生まれてくるやら、50後に生まれた子供が全部片輪になるやら、それはわかりませんよ、わかりませんけど、今の段階では(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか…。」

片輪という言葉もどうかと思うが、金に目のくらんだ政治家と、その講演での発言に拍手喝采したという推進派の意識には背筋が凍る。

敦賀の旅館のおばさんが自然に言っていた「げんでん」という言葉も、原子力発電を省略した言葉にしては無理がある。頭を取れば「原発」が普通だからだ。しかし現地ではみんな原電と言う。一説によれば「原爆」と音が似ているからだとも言われている。

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敦賀の数年後には東海村に行き、防護服を着て停止中の原子炉建屋の中にも入った。そこでエンジニアから聞いたのは、やはり敦賀での説明と同じだった。その話を知人の編集者にしたところ、驚くべき言葉が返ってきた。

「チェルノブイリとかに感化された、社会派ミーハーみたいなことしてるんだね」と言われた。「社会派ミーハー」という言葉を初めて聞いたが、80年代初頭にはまだなかった、冷笑系の走りの人だったのだと思う。こんな人に話すんじゃなかったと、あまりにもくだらない言葉に落胆した。

今日は8月6日。広島に原爆が落とされた日で、多くの人が犠牲になった。福島も原因は違うにせよ同じ「核の被害」を受けた。1945年の出来事は生まれる前のことなので実感を持つことは難しいが、チェルノブイリや福島の事故は我々が生きているときに起きた。No more Hiroshimas.という言葉は「広島で起きたような悲劇を繰り返すな」という意味だが、そのHiroshimasという複数形が指すものには戦争だけでなく、原発事故もあるんじゃないかなと思った。

今日、友人である田中泰延さんが父親の故郷である広島について、戦争についての素晴らしい文章を発表していた。そこには多くの大切な言葉があった。

俺は数回、広島平和記念資料館に行ったが、一度、数人のアメリカ人の若者と出会ったことがある。10代から20代の典型的なアメリカの若者だった。彼らはまるでディズニーランドにでも入園するようなはしゃぎ方で資料館に入っていったが、出てきたときはがっくりと肩を落とし、誰ひとり、言葉を発する者はいなかった。

「アメリカが日本にしたこと」という、日本人以上に感情を揺さぶるものが資料館の中にあったのかもしれない。アメリカでは原爆投下を誇りに思っているスタイルの教育も厳然としてあるからそれは不思議ではない。高校の校章にキノコ雲が使われていた例もあった。だから一番の罪は無知である。

田中さんの文章をぜひ、今日という日に読んでみてください。
https://hiroshimaforpeace.com/hiroshimas/


多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。