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『女優』はダメだろうか:博士の普通の愛情

近頃は「女優」という言葉を使わない傾向にあるよね。なんでもジェンダーで切り分けず、全体を平等に「俳優」と呼ぶのが正しいという考え方自体には異論がないんだけど、「女優」という言葉の持つ華やかな印象がなくなってしまうのは勿体ないとも思っている。

ジェンダーによる差別というのは、それによって不愉快なカテゴリに押し込められたり、不当な対応をされることによる。「女は引っ込んでろ」とか「女のくせに偉そうに」なんていう前時代的な言い方や、試験の結果に性別で加点するなどの横暴はなくなればいいとも思っている。以前、ある写真に関わる人から、「女性写真家だけをピックアップして、彼女たちを応援する写真展をやろうと思っている」と聞いたことがある。これには違和感があり、その原因を考えたときわかったことがある。

つまり、「男性優位の分野に女性がいるとき」というのがポイントなんじゃないかと。書くのも気持ち悪い言葉だけど「リケ女」なんていうのもそうだろう。科学分野、政治、自衛隊、工事現場など、男社会だと思われている場所がなぜずっと女性を排除してきたのかと考えることもせずに、そこに女性がいることを揶揄したり、反対に持ち上げたりする。

先ほどの写真家の例で言えば、女流写真家、なんていう区分けが本当にナンセンスでばかばかしいことはわかる。シャッターを押す作業に男性も女性も(もちろんLGBTというカテゴリを含めて)誰であろうと関係ない。それを言った人とは、僕の極端なところかもしれないけど、絶縁した。差別主義者だからではない。写真のことが何もわかっていないと思ったからで、その人と話して何も意味がないと思ったからだ。

男性が自衛官になっても誰も不思議に思わない。しかし女性だとメディアに取り上げられたりする。その「女性なのに、頑張りましたね」という批評の無能さが嫌いだ。そう言っている人はただ男性という性別に生まれたことをなぜ優位に思えるのか。

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その点、演技における「女優」というのは、単なる配役というか同じ演技をする大勢の中で「女性である」という意味に捉えてきた。宝塚歌劇団、歌舞伎などに見る配役の逆転がややこしくさせている部分はあるけど、両方あるからいい。相撲の土俵に女は上がるなというのとは違う。

だから、女優という言葉は差別であるといった主張を聞くとき、たとえばソフィア・ローレンを敬意とともに「女優だよなあ」と思ってしまう自分は、はたして差別をしているのかと悩む。褒め言葉のつもりで差別用語を使う人がいるから慎重にならないといけないんだけど、ここでこんな一言を提示してみよう。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。