ガラスの花瓶:博士の普通の愛情
すべてのものにわけへだてなく、正しく優しくあろうと思っている。ひとりひとりがそう思っていれば世の中はもう少しよくなるんだろうけど、人類の全員がマザー・テレサじゃないから、いわゆる「スト破り」のように、皆が真面目にやっている間に俺だけがこうすれば出し抜くことができる、とあくどいことを考える人がいる。
精神の「スト破り」はなくならない。誰だって聖人君子じゃないから時には悪いことが頭をよぎることもあるだろう。
吉田という知人が、今までに誰にも言ったことがないという悪事を話し始めた。俺は知らなければ済んだ責任の一端を負わされるようで気が重かったが、まあ相手は酔っ払いなので聞き流しておけばいいやと思った。
吉田には尊敬する先生がいた。大人になってから突然ピアノが弾きたくなってピアノ教室を探し、いくつかの教室を経たのちに出会った個人教授がその先生だったそうだ。閑静な住宅街の古くて大きな家。演奏旅行で世界を回っていたピアニストは引退し、今は奥さんとふたりで静かに過ごしていた。
彼は週に一度、先生にピアノを習いに行く。レッスンが終わるといつも、奥さんをまじえて三人でお茶を飲み、話をした。習い始めたとき、先生は65歳、奥さんは47歳だった。
生徒の吉田は50歳。大手の商社に勤務しているが仕事もそれほど忙しくなく、老後のための趣味をピアノに決めたと言う。当然、50歳からピアノを習うというのは無謀で、ちいさな子どもが憶える数倍は時間がかかった。
「ずいぶん、上達しましたね」彼は奥さんにそう言われて、頭をかいた。「全然うまくなっている気がしません」その会話を聞きながら、先生はコーヒーカップを手に笑っている。
リビングルームに大きなガラスの花瓶があるのに気づいた。以前はなかったような気がする。「あの花瓶、素敵ですね」と言うと、先生は「昔、教えていた生徒から送られてきた。この家にはちょっと立派過ぎるよ」と言う。よくわからないが、確かに高級そうな花瓶だった。80センチくらいの大きさで、国宝などの美術品専門の配送業者が届けに来たと言っていたから価値があるものなんだろう。
先生はちょっと怖い目つきで縁側から庭の方を見た。「僕はね、その庭の芝生の上にこの花瓶を置いてさ、ゴルフクラブで粉々にしたくなるんだよ」と言った。
奥さんが「やめてください、そんな危ないことを言うのは」とたしなめる。吉田にはなんとなく先生の言っていることがわかるような気がした。素晴らしいとはわかっているが、美しさゆえに壊してしまいたい願望もどこかにある。それが人間というものじゃないだろうか。
吉田は数年経つうちに、先生のことを人生の師として尊敬するようになった。これほどまでの人間性を持つ人に出会ったことがないと思った。振り返ればずっと仕事で他人を出し抜こうと考えたり、嫌いな取引先にお世辞を言ったりしてきた。先生との関係は、師弟の間柄ではあるものの、友情というか愛情を感じさせてくれた。先生からも同じ感情が受け取れた。少し年上の兄貴のような立場で吉田のことを思ってくれていたのだと思う。
それとは別に、吉田にはもうひとつの感情も生まれていた。奥さんである。
簡単に言ってしまえば、奥さんのことが好きになってしまった。奥さんは女性らしさをことさら表には出さないが、いつも身ぎれいで好感が持てた。吉田はそれが好きだったが、いつしか愛情に変化していくのがわかった。尊敬する先生の奥さんである、と自分を戒めるのだが、お茶の時間には奥さんの姿ばかりを目で追っているのに気づく。
これだけならよくあることだろうけれど、ある日、大きな心境の変化が訪れた。人間ドックの結果が出て、先生が再検査を受けるという話を聞いた日のことだ。実際はたいしたことではなかったようで再検査の数値は正常値とさほど変わらなかったという。吉田は、「先生、なんともなくてよかったですね」と心の底からそう言ったのだが、口から出るその言葉に、もう一人の自分から、「それは本心か」と聞かれたように思った。
「もしかしたら、先生が死んだらいいと思っていなかったか」と黒い服を来た自分に言われたような気がした。
その言葉に囚われてから、レッスンに行くたびに心が乱れた。僕は先生が死ぬことを期待していたんだろうか。これほど尊敬している先生なのに。奥さんだってそうだ。先生とふたり、家族のように僕に優しくしてくれることにずっと感謝してきた。その奥さんに邪悪な考えを持つとは、自分はどれほど下品な人間なんだろうかと、吉田は思った。
前に先生が言っていた言葉を思い出す。美しく高価なガラスの花瓶をゴルフクラブで割って粉々にしてみたい。それが正常な考えじゃないことは十分わかっている。わかってはいるが、やってみたい気持ちがどこかにある。
吉田は思い切り振ったゴルフクラブがガラスを砕く手応えを両手に感じている。奥さんが好きなことと先生を尊敬していることとは、まったく別の問題なんじゃないかと思い始めていたのだ。
この先はまだ考えていないので「ボンヤリする会」に参加してくれたメンバーと結末を話し合いたいと思います。
「ボンヤリする会」
https://note.mu/aniwatanabe/n/n21f4a00acff6
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。