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タエの声:博士の普通の愛情

友人からメールが来て、写真展をするので来て欲しいと言われた。わかった。久しぶりに会いたいから行くよ、と答えたがギャラリーの場所を見て後悔した。京王線・下高井戸駅近く。その街にはたくさんの記憶があって、できれば思い出したくないと意識の下の方にしまい込んで蓋をしていた思い出がある。

その人と会ったのは、ある旅行のときだった。数人の友人と仙台に行ってあまり美味しくない牛タンを食べたのをおぼえている。東京の仲間のなかで仙台の実家に帰ったやつがいたので、仙台観光をメインに一泊で会いに行ったのだ。彼はいつも一緒に遊んでいた男臭い仲間を照れくさそうに家族に紹介してくれた。まだ20代半ばで全員独身の僕らとは違って、彼は家庭を持っていて立派だ。感じのいい奥さんと生まれたばかりの娘がちいさなアパートの部屋にいた。

「平凡なサラリーマンをやってるよ」と、凡庸さを嫌っていた彼は近所の喫茶店でコーヒーを飲みながら自虐的に言ったが、僕たちはそれぞれが自分のふがいなさを感じていたように思う。その日の夜、仙台駅に近いホテルの一室に集まっていた僕ら三人は深夜三時くらいまで酒を飲み、だらしなくなるにつれて「あいつは偉いよ。俺たちはクソ人間だ」と言い合った。翌日の朝、ひとりが知り合いの店に行こうというので雑貨屋に立ち寄った。アジア系の雑貨屋だった。友人の知り合いの店長はいなかったが、そこで働いている若い女性はとてもチャーミングだった。

東京に戻ってしばらくして、その彼女から電話があった。東京に住むことになったので部屋探しを手伝って欲しいと言う。正直なことを言うと面倒くさかった。あの日に一度だけ店で立ち話をしただけなんだから。

「下高井戸のあたりがいいんです」

電話の向こうで彼女はマニアックな地名を言った。高井戸の下の方かな、ということくらいしかわからない、というか、高井戸のことだって行ったことがないから何も知らない。しかしそれまで一度も降りたことがなかった下高井戸の駅に、僕はそれから数年間、毎日のように通うようになった。

彼女の名前は「北島多恵」という。最初の頃は北島さんと呼んでいたが、彼女は自分の苗字が気に入っていないのでタエと呼んでくれと言った。僕と一緒にいるときも家族の話はほとんどしなかったし、父親との関係が複雑だったことも上京と関わっていたようだった。僕らは20代中盤の数年をふたりで過ごし、いい思い出も、心が締め付けられるような諍いも、たくさんあった。僕は40歳になり、いつの間にかその当時のことを完全に忘れたと思っていたが、友人の写真展に行くには、あの大好きだった駅で降りなければいけない。駅名の文字を見ただけでこれほど動揺するものかと不思議に思った。

その日、駅を降りて北口の風景を見た瞬間、比喩ではなく命に関わるのではというくらい僕の中年の心臓は暴れた。青果店はまったく同じ佇まいだったし、見覚えのある店がほとんどそのままに残っていた。「おいおい、あれから何年経っていると思ってるんだ。ちょっとは発展していてくれよ」と思った。歩いて行くうちに隣にタエがいるような錯覚を味わう。僕らは細い路地をクルマが通るとき、お互いがどちらによけるかを決めていた。そうやってこの道をふたりで歩いていたんだ。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。