見出し画像

母への爆撃:博士の普通の愛情(無料記事)

小学生の頃、よく行く場所があった。子供向けの科学展示施設のようなもので、長い正式名称をおぼえる気のない僕らはただ「センター」と呼んでいた。

ある夏休みの日、僕らはいつものようにセンターに集まった。施設にある古ぼけた原子模型などの展示はもう見飽きていた。館内の自動販売機で得体の知れないジュースを買い、クーラーの効いたホールのベンチで寝転がる。時間が過ぎていくのが遅い。こどもにとって夏休みの一ヶ月は長く、退屈だ。この時代にインターネットがあればずっとそれだけをやっていた自信はある。慣性の法則を説明するために重たい金属がレールの上を走って衝突する展示、こんなくだらないものを見なくてもネットで調べれば数百倍も知的好奇心は満たされるはずだ。

その日は、野中とケンジがいた。野中は優等生、ケンジは悪ガキだった。ケンジという名前は、だいたいケンちゃんとかケンジと呼ばれることに憧れがあった。クラスの女子から「ケンジ」と声をかけられることに野中も僕も嫉妬していたと思う。特にその頃はケンちゃんという主人公が出てくるテレビドラマがあったから余計にそうだったんだろうけど、ケンという音の響きは、誰でもそれを口にしたくなる魔力があるのだと思っている。

「ねえ、何する」
「やることないなあ。今日はプールも休みだし」
「爆撃でもやるか」
「だな」

ケンジが好きだった「爆撃」とは、センターの大きな階段から下を歩く人に向かってツバを垂らす、という極めて凶悪な遊びだった。僕らは現代では考えられないくらい下品でアンチ・コンプライアンスなことばかりして、永遠とも思える長い時間をつぶしていたのだ。野中は優等生だったから爆撃に参加することはなかった。くだらないことをしていてそんなことを言うのもおかしいが、僕たちの遊びには美学があった。誰かがその遊びに参加したくないときは決して強制しない。集団の陶酔で同じことをしたがるのは盲目的でバカだと、10歳くらいの僕らはすでに知っていたのだ。

「工事の人がいるよ」

ホールの建設工事をしていたと思われる20代くらいの男性がケンジが指さした方向、一階の階段に座っているのが見えた。青いヘルメットを被っている。

「あのヘルメットに爆撃してみたいな」
「でも、ピチョンと音がしてバレるんじゃないか」
「その音が聞きたいんだよ」

ケンジが楽しそうにそう言うと、野中が近づいてきた。

「ここは音が反響するから、いいだろうなあ」
「お、野中もそう思うか。わかってるねえ」
「うん」

僕らのヒソヒソ声も高い天井に反響して、うっすらとリバーブがかかっていた。

「今日は僕が爆撃してみようかな」

野中は口をモゴモゴさせながらツバを貯めている。下にいる男性はヘルメットを脱いで鞄の中から何かの包みを取り出していた。弁当を食べるつもりなのだろう。少し天然パーマ気味の男性の頭頂部を狙い、野中は階段の手すりから身を乗り出した。

「ちゃんと狙えよ」
「うん」

口の中いっぱいにツバを貯めた野中は慎重に位置を調節している。男性が布の包みを開いて弁当箱を開け、海苔で覆われた黒い中身が見えた瞬間、空爆は行われた。ふわーっと落ちていく野中のツバは空調のせいだろうか、頭頂部から軌道を逸れて弁当の真ん中に落ちた。

「やばい」

ケンジが手すりから体を引っ込める。ぴちゃーんという音がホールにこだまして、僕ら三人は事態の重大さを感じた。下にいた男性が僕らの方をゆっくりと見上げる。怒られると覚悟したのだが、彼はとても悲しそうな顔をしてずっとこちらを見ているだけだった。もちろん我々の顔は手すりの隙間から見られてしまったのだが、音を立てないように後ずさり別の階段から走って逃げた。玄関ホールのガラス越しに、男性が爆撃された弁当の蓋を閉じ、食べるのをやめるのが見えた。

「野中、あれはないわ」
「わざとやったわけじゃないんだよ」
「狙いがズレたか」

近くの公園で爆撃の反省会が開かれたが、僕らに共通していたのは大声で怒鳴られた方がずっとましだった、という気持ちだった。彼が弁当を閉じたときの顔が忘れられない。

「あれ、誰が作ったお弁当だろうな」
「お母さんかな。自分かもしれないけど」
「自分だったらあの顔はしていないと思う」
「そうか、あれはせっかく作ってくれたのに、という顔だった」
「たぶんお母さんだろうな」
「悪いことしたね」

心が傷ついて痛くなる、という経験を三人はこの日に初めてしたのかもしれない。それから僕らは爆撃をやめた。

隠れるようにして夕方まで遊んでいた公園を出て、センターの前を通って帰る。入口にある駐車場にゴミ箱があり、そこに彼の弁当の中身が丸ごと捨てられているのを見た。

「やっぱり、お母さんが作った弁当だったんだよ」
「残したままじゃ家に帰れないもんな」
「お母さんがあの人のために作ってくれたんだ」

ケンジはゴミ箱を見て泣いていた。どういう理由かはわからないが、野中は横に落ちていた新聞紙をその弁当の残骸にかけた。死んだ人の顔にかける白い布のように見えた。家に帰って僕は母親に聞く。

「僕がお弁当を全部残してきたらどう思う」
「あなたはいつも残さないで食べてくれるじゃない」
「もしも、だよ」
「そうね。あなたのために一生懸命に作ったお弁当を残されたら悲しいかな」
「だよね。やっぱり」

その日に食べた晩ご飯は味がせず、とてもつらかったことをおぼえている。

30代後半になった頃、三人で会う機会があった。僕はふたりがあの爆撃をおぼえているかを知りたかったが、聞くのが怖い気持ちもあった。僕はあの日から「誰かが心を込めて作った料理を無駄にされる」というような映画のシーンを見ると瞬間的に涙が出てしまう。罪の意識と言ってしまうと簡単に聞こえるかもしれないけど、心の奥の方に抜けない黒い棘が刺さったままなのだ。港に面したホテルのレストラン。ローストビーフを食べていたケンジが皿の外に肉を落とした。

「いけね。落ちても食べるけどね」
「うん」
「うん」

野中が僕らの方を見て言う。

「あのさ、最後の爆撃、おぼえてるだろう」
「ああ」
「俺はあの日、家に帰ってから母親に聞いたんだ。自分が作った弁当が誰かにゴミ箱に捨てられたらどう思うか、って」
「うん」
「母親はあのときの男の人と同じ悲しそうな顔をしてしばらく黙っていた」
「うん」
「それを見たとき、俺はどれだけ酷いことをしたのかがよくわかったよ」
「野中もか。俺もあの日、同じことを母親に聞いた」
「そうか」

ケンジは黙っていた。彼の母親は5歳のときに亡くなっていたからだ。

母の日が近づくと、いつもこの日のことを思い出す。今もセンターが同じ場所にあるのかは知らないし、ネットで検索する気もない。

(世界のすべての母に感謝を込めて)


ここから先は

0字
恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。