トートバッグ(前編):博士の普通の愛情
「他人の気持ちをコントロールすることが一番の罪だ」と思っている。
これはいつだったか、サヤカという友人の女性から聞いた話なのだが、登場人物が誰かわからないようにすればどこに書いてもいいと言われたので書くことにした。もちろんサヤカは仮名だ。
サヤカはある大手飲食チェーンの社長秘書をしていた。ほぼ毎日のように仕事がらみの会食があったが、頭がいいし容姿も優れている彼女は、取引先からの評判がよかった。社長もそれを心得ていたようだったから、いつも彼女を連れ歩いていたのだろう。
新規出店のときなどは地方に出張することもあったのだが、サヤカの婚約者である彼はそれをあまり快く思っていなかった。
「北海道で二泊もするの」
「だって、仕事だもん」
「それはわかってるよ。でもね」
「私ももう30歳だから若い子とは違うし、変なことは起きないから」
「そういう問題じゃないんだよ。相手は経営者だからだいたい60代か70代だろう」
「そうね」
「そいつらからしたら、30歳なんてピチピチの若い女性じゃないか」
「まあそうかもしれないけど。ピチピチではないと思うよ」
出張のたびにこんな会話が繰り返された。彼は父親の不動産会社を継ぐことになっているが、まだ社員扱いだった。商店街によくある小さな不動産屋だ。サヤカの年収は彼の三倍以上あって、そこにはお互い触れないようにしている。結婚してしまえば一緒の財布になるのでさほど気にはならないのだろうが、今のところ、ふたりの別々の生活レベルに差があることも彼の悩みだった。ある日、サヤカが持っていたエルメスのバッグを見た彼が、「それ、高いだろう」と聞いたことがある。サヤカははっきりとした値段を言わなかったので、彼はサヤカがいないときにスマホでその写真を撮った。スマホで撮影した画像でオンラインショップを検索できる機能がある。そこに表示されたバッグの金額は約200万円だった。
「自分で買ったのだろうか。それとも誰かに買ってもらったのか」
彼は疑心暗鬼になり、サヤカの持ち物を次々に撮影して値段を調べる。時計は100万円、指輪は50万円で、その三つだけでかなりの金額になる。いくら彼女の給料が高いとは言ってもこんなに買えるものだろうか。そんなことばかり考えているから、度重なる出張へも疑念が浮かんでくるのだ。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。