見出し画像

2020/06/22 会うことを代替する何か

お疲れ様です。新田です。今日は短文ですが最近感じた不思議な感覚について書いてみます。

緊急事態宣言が解除され、朝のルーティンで朝食のヨーグルト買いに行くときに人を見かけるようになった。コロナ禍が忘れ去られるわけではないが、出勤という言葉を思い出したかのように人が多い。

自分も例にもれず、ドライブという言葉を思い出したので親しい友人と出かけた。

3ヶ月ぶりなのに全く久しぶりな感じがなかった。zoomで毎週あっていたからなのだろうか?これはすごく不思議なことでLineを毎週やりとりをしている程度ではそんなことは感じない。

zoomによる定期的なコミュニケーションによって「会っている」という感覚が補われている。
やはり、「会っている」という感覚を占める情報は視覚情報なのだろうか。それと声、聴覚情報が補っているのだろうか。

そもそも、ひさしぶりとは何なのだろうか、少し辞書を調べてみる。

[名・形動]前にそのことを経験してから、再び同じことになるまでに長い日数のあったこと。また、そのさま。ひさかたぶり。しばらくぶり。「久し振りに映画を見る」「久し振りな(の)雨」

なるほど、自分たちは前に何かを経験してから、再び同じことになるまでの日数はzoomによって経過しなかったようである。

実際に対面で会うという経験をしてから、再び対面で会うまでの日数は経過している。何か「対面で会う」という経験を代替しているようだ。

ここまでまとめると、zoomを使うと「対面で会う」ことを代替する何かを経験できる。zoomはその代替を行うのツールである。zoomで共有できる五感は視覚と聴覚だけである。

むしろ五感に制約をかけることで、今までの感覚を何かに代替することを促進しているのかもしれない。

また、別にzoomであっていたからといって、ドライブ中に話題が尽きることはなかった。これはzoomの時とは異なりドライブを主軸において会話をしていたから続いていたのか、単に共通の話題がある仲だったからなのか。気になるけれど、これ以上は羽休めかたに対して、掘り下げるのはやめておこう。複雑に考えすぎた。

今月は経験の代替性について考えみようと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?