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きれいな先生は好きですか?


イタズラっ子たちは”女かよ”と嘆いた

小学1年のときの担任は若い女性の先生だったことまでは覚えているが、そのほかのことはほとんど覚えていない。2年生から児童数も増えてクラス編成があったような・・、そして新卒の男のH・ T男 先生になった。

時代も違うからか、ずいぶんゆとりと言うか、のんびりしていた気もするし、楽しい学校生活だったと思う。今どきの小学校はどうか分からないが、コマとか、将棋とか、おはじきなど、遊び道具を持ち寄って、昼休みは存分に楽しめた。

その H・ T男 先生は3年間受け持ってくれて、のびのびと自由にたくさん遊んでくれたりした。4年の終業式が終わってから、先生は三年間ありがとうと、そして5年生から別の先生に代わることを告げられた。

さて、5年生になる新学期、どんな先生が担任になるか興味深かったのだが、女性の先生になったことが分かると、いたずらっ子の男子らは、「女かよ」と嘆いたのだ。

新学期ということもあってか、ちょっとお化粧していたからなのか、この時代、お化粧する母親なんて皆無ということもあり、いたずら盛りの男の子にとって、なんとなくイヤだなぁ、と感じたのかも知れない。

要するに三年間一緒に遊んでくれたのは男の先生で、女の先生では口うるさそうだし、思うように遊んでくれないのでは・・、と思ったのだろう。

厳しくも充実した二年間

5年生になってからの担任は女性の S・N子先生になった。4年までの男性H・ T男先生は新任だったが、S 先生は少し先輩だった。

件のいたずらっ子男子らのリーダー格の S 崎クンは、とにかくわんぱくで奔放だった。ある女子の座席の椅子に画びょうを置いたイタズラで、知らずに座ってでん部に画びょうを刺した女子は大泣きで S・N子先生に訴えた。これはさすがに S・N子先生を怒らせた。S 崎クンも少しは大人しくなったけれど、天性のわんぱくぶりは変わらない。

ある日の給食で、誰が始めたのかパンをちぎって1センチほどに丸めてそれを誰かに投げつけたのだ。

投げつけられたお返しとばかり、彼も1センチほどに丸めたパン玉を投げ返した。いつの間にか男子ばかりではなく、お転婆な女子らも真似してパン玉の投げ合いに発展してしまった。

教室中が騒然となり、駆けつけたS・N子先生の知ることとなった。 S・N子 先生は、決してヒステリックではなく、厳しくも諭すような口調で叱ってくれた。

皆んなは毎日ご飯や給食が食べられるけれど、その日の食べ物さえ無い、何日も食べられない人たちが世界中にいるんだと・・、給食の材料は農家の人たちが一所懸命、汗を流して畑を耕したりして作ってくれる、そして大勢の人たちが関わって学校に届き、今度は給食のおばさんたちが作ってくれるんだと・・。

食べ物は何もしないでそこにあるわけではない・・、みたいなことを滾々(こんこん)と聞かされたと記憶している。

現代ほど食糧事情が豊かな時代ではない。食べ物を決して粗末にしてはいけないと厳しく叱られた。そう、S・N子先生の少女時代は戦中・戦後の貧しい時代を過ごされたからだ。

夏休みや冬休み、学校の近くに下宿していた S・N子先生のところへは、よく遊びに行ったりもした。夏休みにはハイキングに行ったり、冬休みはこたつに入って、みかんを食べたり、トランプなどで遊んだり、今では考えられないだろうけれど、その時代はよく遊んでくれたものだ。

宿題も特に決まっては出さず、例えば家のお手伝いをしたとか、好きな漫画の絵を描いたり、自由にテーマを決めてできたことをノートに書いて提出する形式だった。

また、S・N子先生は書道の師範のように達筆だった。朱のお手本を一所懸命練習して、褒められると何だか嬉しかった。

女優さんと見紛うほど、とても美人で明るくもあり、優しくもあり、厳しくもあった先生だった。わんぱく男子らも卒業式には晴れやかな気持ちと同時に、お別れするのがちょっぴり寂しかった。イタズラっ子のS崎クンの胸中は悲しくて複雑だっただろう。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。






#忘れられない先生

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