'Treat like cases alike.'の原則

『講座 あにまるえしっくす』をいつもご愛読ありがとうございます。第0回「倫理学を始めよう!」では、健全な倫理的判断は妥当な「理由」を必要とし、そして妥当な理由は3つの条件を備えていなければならないと解説しました。3つの条件とは

①普遍的な視点を備えていること
②一貫性を備えていること
③正確な事実に基づき、かつ、事実と価値を区別していること

なのでした。今回はこの第2の条件である「一貫性を備えていること」についてより詳しい説明を試みます。

Treat like cases alike.

アニーの説明によれば、ある倫理的判断に一貫性を持たせるとは、「もしある状況である理由に基づき倫理的判断を下したなら、その理由は他の類似した状況でも同様の判断を導く理由のひとつとして見なす」ということでした。なんだかややこしくてわかりにくい説明です。ざっくりと言えば、「同様の事例では同様な判断を下さなければならない」という要求であり、'Treat like cases alike.'という格言に示されている要求です。漫画内でアニーが示した例を引用してみましょう。

アコとマコという双子がいて、先に帰宅したマコが学校のテストで良い点数をとったとお母さんに報告したとしましょう。そこでお母さんはマコにお小遣いを与えました。すると後から帰ってきたアコも同じように良い点数をとったと報告したら、お母さんはどうすべきかな?

お母さんは「娘がテストで良い点数をとったのだから」という理由から、マコにお小遣いを与えたのでした。'Treat like cases alike.'の原則に従えば、特別な事情がない限り、お母さんはこの理由をマコにもアコにも適用させるべきです。同じ理由があてはまる状況では、同じように判断を下さなければならない、これが理由の一貫性です。

ここで、もしお母さんが「アコにはお小遣いを与えるべきではない(与えなくてもよい)」と判断するなら、その判断を正当化するような相応の違いが、マコとアコになければなりません。このように、2つの事例で異なった判断を下すことを正当化するような違いのことを「道徳的に重要な違い」と言います。

確かに、マコとアコには様々な相違があるでしょう。2人の名前は異なり、双子とは言え顔つきも微妙に異なるでしょう。趣味や食べ物の好みも異なるかもしれません。しかし、そのような違いが、アコにはお小遣いを与えないことを正当化するような道徳的に重要な違いたり得ないのは明らかでしょう。それに対して、もしアコは普段から成績がよく、アコにとってこのような成績は珍しいものではなく、「その程度で小遣いは要らないよ」という了解が親との間でなされているのであれば、これは2人を異なった仕方で取り扱う適切な理由、つまり道徳的に重要な違いになるでしょう。

性別と人種

リン(男性)は大学で学ぶことに利益があり、マル(女性)にも同様の利益があるとします。この時、「大学で勉強する機会を与える」という倫理的配慮を、リンにのみ与え、マルには与えない正当な理由が何かあるでしょうか。もしもリンが男性であり、マルが女性であるから、というだけの理由でそうするならば、私達はこの判断を「不正だ」と認識するでしょう。この場合に性別の違いや肌の色の違いが道徳的に重要な違いたり得ないことを、私達は十分に承知しているはずです。

しかしなぜこの場合、リンとマルを性別の違いから別扱いすることは許されないのでしょうか。それは、大学で学ぶという利益に性別の相違は(もちろん人種の相違も)何ら重要ではないからです。大学で学ぶという利益に関連のある適切な事実は、「講義室へ行き、言葉を理解し、読み、書くという能力が備わっていること」です。ここで、リンは合格基準点に達したがマルは達しなかった、といった理由を挙げるならば、2人の別扱いは正当化されるかもしれません(ただし、生まれ育った家庭環境も、もともと備わっている能力も異なっているのに、一律の「合格基準点」を適用させることが適切かどうか、という問題もあるでしょう。これは別途考えなければならない問題です)。

女性には生理休暇が認められていますが、男性には認められていません。しかしこの倫理的配慮の相違は、単に性別の相違という理由のみに基づくものではなく、女性には生理があり、男性にはない、という道徳的に重要な違いがあるがゆえの扱いの差です。(ただし、生理のある男性もいるはずなので、この扱いの差が全面的に適切なわけではありません。)

ある国では、白人には自由が保障され、黒人にはそれが保障されていないとします。このとき、「自由を保障する」という倫理的配慮を、白人にのみ与え、黒人には与えないことを正当化するような道徳的に重要な違いが存在するでしょうか。白人が自由を享受することに利益があるならば、黒人にも同様の利益があるはずです。彼らは白人ではないからというだけの理由によって両者を別扱いするならば、不正であることは言うまでもありません。というのも、自由を享受するという利益に関連する適切な事実とは、「自由の侵害によって苦痛を感じること/自由の享受によって幸福を得られること」であり、肌の色の相違など(もちろん性別の相違も)何ら重要ではないからです。

動物種

さて、私達の社会は、人間を同意なく医学研究や教育のために実験に利用することを禁じています。しかし、(人間以外の)動物をそうした実験に利用することを禁じていません。また、人間を監禁し、肥育することは許されていませんが、動物をそうすることは許されています。では、これらの行為を、「人間にはしてはならないが、動物にはしてもよい」とする取り扱いの相違を正当化するような道徳的に重要な違いが、人間と動物の間に存在するのでしょうか。

人間が二足歩行なのに対し動物は四本足であることが、人間を実験に使うことは許されないが、動物ならばそうしても許される適切な違いでしょうか。言語を用いたコミュニケーションが可能であるか可能でないかという相違が、人間を食用に供してはならないが動物ならばそうしてもよい適切な違いでしょうか。これらが、取り扱いの違いを正当化できる道徳的に重要な違いでしょうか。

人間が(同意なく)実験に利用されたり監禁されたりすることを避けたいのは、実験に利用されないこと、監禁されないことに利益をもつからです。そして、「実験に利用されない」という利益に関連のある適切な事実とは、「同意のない実験によって苦しむかどうか」です。ここに、「男性であるか女性であるか」も、「白人であるか黒人であるか」も、「2足歩行であるか4本足であるか」も、いずれも重要ではありません。同様に、「監禁されない」という利益に関連のある適切な事実とは、「監禁によって苦しむこと」です。「染色体が46本であるかどうか」でもなければ、「体毛が濃いか薄いか」でもなければ、「言語によるコミュニケーションが可能かどうか」でもありません。苦痛を与えられないという倫理的配慮にとって唯一重要なものは、苦痛を感じるかどうか、すなわち、ある程度の複雑な神経系(侵害受容器や痛みの経験を処理できる脳構造)を備えているかどうかであり、それ以外の特徴は何ら重要性をもたないでしょう。

であれば、「同様の事例では同様な判断を下さなければならない」、'Treat like cases alike.'の原則に従い、「同意のない実験に利用してはならない」という倫理的判断は、同意のない実験によって苦しむ存在者に適用されなければなりません。「監禁、肥育し、食用に利用してはならない」という倫理的判断は、監禁や肥育によって苦しむ存在者に一貫して適用されなければなりません。

一方で、人間と動物の取り扱いに違いを設ける適切な理由となるものもあります。例えば、ウサギに、大学入学を認めないことは不正でしょうか。上述の通り、大学で学ぶという利益に関連のある適切な事実は「講義室へ行き、言葉を理解し、読み、書くという能力が備わっていること」なのでした。ウサギにはそうした能力は備わっていないのですから、ウサギを講義室に連れて行き、ノートとペンを渡しても、ウサギには何の意味もありません。重要な点は、ここでは単なる動物種の相違に基づいて別扱いを検討しているのではなく、大学で学ぶという利益に関連のある事実に照らして検討しているということです。ここには確かに道徳的に重要な違いがあるがゆえに、ウサギに大学入学を認めないことは不正ではありません。

犬の散歩では、車両が行き来する一般道を歩くことがあるでしょう。犬は動いているものに興味を示し、突然走り出すかもしれません。車がどれほど危険であるかということを、犬に教え諭すことは困難です。そして走り出した犬を人間が捕まえるのも困難でしょう。こうした理由は、人間の幼児には通常リードをつけないが、犬にリードをつけるという取り扱いの違いを正当化する道徳的に重要な違いとなり得るでしょう。(なお、幼児用リードというものもあります。これも目的は事故や迷子の防止のためです。)

今回は、健全な倫理的判断を支えるための「理由」に必要とされる3条件のひとつ、「一貫性を備えていること」について解説しました。ひとまず、こんなところで。それでは、今後も『講座 あにまるえしっくす』をよろしくお願い致します。


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