遺影

 暗闇の中で蠢く何かが耳の上を掠める。ひとつひとつが自分の顔ほども大きいそれが七重に八重に連なり、鼻や目、口、顎の下を通って辷った。輪郭を浮かべるように、しるしを辿るように身体に纏わりついたそれが疎ましく、堪らなくなって身体を起こす。尾を引くような頭痛が脳の奥でじくじく疼いている。黒い人工皮のソファが音を立てて軋み、膝の上に薄いバスタオルが落ちた。たぶん、これはカフカの気遣いのかたまり。再びそれを抱いて小さく息を吸い込むと、香料の少ない柔軟剤の澄んだにおいがした。

 カフカは大人のひとりぐらしのわりには生活能力が著しく欠けている。自炊なんかしないし、友人たちからは「スペースデブリ製造機」なんて烙印を押されているぐらいだ。そんなカフカに代わって炊事や洗濯、簡単な掃除をわたしが行っている。ところでどうして、華の女子高生が得体の知れない成人女性の家で貴重な放課後を浪費しているのか、って。わたしはこの部屋を居所として利用している。日雇いの書生みたいなものかもしれない。彼女の部屋で家事に没頭している間だけは、肉体の全てが切り離されて、中身が解放されたかのように軽い。

 バスタオルを肩に掛け直したまま、キッチンに向かって歩みを進める。彼女は勝手にお湯を沸かして飲み物を淹れたぐらいでは、いちいち目くじらを立てたりしない女であることをわたしは知っている。ついでに彼女の分も用意しようとマグカップをふたつ並べて、インスタントコーヒーのパックとココアや紅茶の缶の上で指先を彷徨わせた。コーヒーとココアはここに元々陳列されていたものだったが、紅茶はわたしが飲むために自分で持ち込んだものだ。片方のマグカップにココアの粉末を適量落とし、ティーバッグをひとつ手に取ったところで思い出したかのように頭痛が高い声で主張する。無性に甘いものが欲しくなって、もう片方にも同量程度のココアを容器を傾けて入れた。

 湯気の立つマグカップを両手に携えて居間へ出ると、カフカはキャンバスに向き合っているところだった。足音で既にわたしの存在に気付いていたのか、口を開く前に「んん」と声を漏らす。「ここでいい」。「気が利くね」。「べつに、自分が飲みたかったついで」。パレットやら絵具やらわたしは知らない画材らしき烏合の衆を乱雑に押し退け、小さな机の端にカップを置く。「ほんとうに可愛げのない子」と呟くカフカは表情を変えずに、視線をキャンバスに遣ったまま一口、ココアを口に含んだ。彼女の一連の動きをじっと動かず眺めながら、わたしも舌先をカップの中身に触れさせる。熱とカカオの香りが喉を伝って流れ落ちて、わたしはようやく雨が降っていることに気が付いた。絵筆の走る音、雨音、時計の秒針、たまに室外機と咳嗽。ひとりごと。「そういえばカフカっていうの本名なのかな」、考えごと。この部屋はずっと孤独と言うには騒がしく、喧噪と言うには音圧が足りない。この曖昧さと器量の良さが心地良い。

「本借りていい?」
「勝手にお取り」

 市内の図書館や学校の図書室には及ばずとも、カフカの部屋には膨大な量の蔵書がある。ジャンルは多様で小説や人文書、それから漫画本が過半数を占めている。少ないものは図鑑やライトノベル、画集も少ない。本人の趣味と直接結び付いているのかわからない布陣だ、と書棚の前に立つときはいつも考える。個性や多様性というものを恣意的過ぎるように解釈したアレゴリーみたいな、背表紙の列を一瞥する。新しい蔵書が増えたら玩具を買い与えてもらった子供のような様子で報告してくるので、今ここに立ち並んでいる書籍たちは前回訪れた時と同じラインナップだ。

「カフカぁ、手が届かない」

 ほんとうに尾骶骨に錘でも付いていそうな動きでカフカが腰を上げた。「どれ欲しいの」。「あれ」。わたしは人差し指を伸ばして書棚の最上段を指し示した。「モネか、好きだねえそれ」。特にクロード・モネその人自体が好きなわけではないことは言わなかった。日傘を差す女性が描彼女た三枚の絵が好きだ。揺れる緑の海を踏みしめ、こちらを振り返る女性と小さなこどもの絵。花と稲穂の中で佇むストールを首に巻いた少女の絵。三枚目も同じストールの少女。二枚目と三枚目は意図的に表情が描彼女ていないと言われている。亡くなった妻を想いながら、再婚して出来た子供の絵を描く。どんな気持ちだろうかと想像を巡らせようとして、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。カフカだ。

「窓を開けてほしいの」
「雨降ってるよ」
「そうだね」
「……。窓、開ける?」

 カフカが筆を置いて振り返った。わたしのすぐ後ろの壁に浮かぶ窓を見て、はっとしたように口を開けた。大方、行き詰ってきたところなのだろう。筆が進まなくなってくると「戸棚からクッキーを取ってきて」だの「煙草取って」だの家政婦の如くわたしをこき使おうとするので、窓を開けてくれと言ったのもその類の気まぐれだと思われる。雨が降っていることに気付かなかったのは、それぐらい集中していたという事なのかもしれない。

「部屋の中、濡れちゃうよ。外の空気吸いたいならベランダ出たら」

 筆を置いて数秒、逡巡したのちに、ライターとシガレットを片手に腰を上げた。彼女が緩慢に身体を伸ばしたり、スウェットのポケットに手を突っ込んだりしながらベランダへ向かうのをどうしてか見つめていたくて、無意識のうちに開け放っていた窓のすぐ縁で案山子になるわたしの頬に、つらりと熱のない水分が滴り落ちた。

 頭痛がするんだと思う。眉間を絵具のついた指先で押して、渋い顔で更に渋い表情をしている。わたしはベランダのサンダルも学校指定の膝まである靴下も脱いでしまって、その場に蹲んだ。そうして視界を曇天でいっぱいにしていると、まるでこの身がいちばん矮小な生物になったような気分になる。澄んだ夕方のにおいを雨の中から見つける為に、目を瞑った。

「においってさ、描ける?」
「何のにおい?」
「雨のにおい、金木犀のにおい、都会の隙間風、たばこ、わたしやカフカの存在、なんでもいい。この不規則に混じる空気のいちばん複雑なところを切り取って、スマホの待ち受けにでもできるんだったら」

 カフカは転落防止柵の傍に置いてあったキャンピングチェアを広げて腰掛けた。「頭痛いな」。「うん」。「おそろい」。「そうですか」。世界でいちばん小さな火が生まれて、煙草の先に熱を分け与えてその仕事を全うすると、カフカの指先ひとつでまた死を迎えた。キャンピングチェアの脚に頭だけ預けて、ライターの代わりに生を受けたそれの燻る先を視線で追う。絵を描くってこういうことなのか。世界の混ざる先を目で追いたくて筆を握る、線を引くというより邪魔なものに爪を立てること。色を塗るというより硝子を覗き込むこと。真っ新なキャンバスは冬の磨き上げた窓。耳当て付きの帽子をかぶった子供が駆け寄って来て、細く色だけ透明の吐息を漏らす。

子供を、横で見ているのがわたしだ。ぷっきゅぷっきゅとおどけた音を鳴らしながら、子供が目の前をエレベーターの方へ走って行く。母が「新しいお父さん」を連れて帰宅するのは、もう七回目のことだった。胸元に落ちる息は白く、ずっと遠くの空は墨汁を垂らしたような闇が広がっている。子供の靴跡を上から踏み消すように、エレベーターの方へ自分で歩いた。とうにエレベーターは下降した後で、その先がどこかのパラレルにでも繋がっていればいいのに、と舌を噛んだ。行く宛も無かった。その晩のわたしはほんとうにパラレルにでも行けたらどんなに良いかとばかり妄想して、そこに誰が住んでいるかなんて考えもしなかったのだ。パラレル、パラレル。足は階段を上っている。パラレル、ずっとパラレルへ。そんなもの、ないのに。その場に座り込んで、動けなくなった。つま先も頬も冷えていて、髪も衣類も水分を含んで重い。雨が降るなんて事前に誰も教えてくれなかった。

「お嬢ちゃん、そこはね、あなたのお友達の家じゃあないんだよ」

 上から、声が降ってくる。日の暮れる時間になると自動で点灯する街の灯りみたいに、その場が静かに確かな明瞭さを得ていくようだった。喫煙者特有の嗄れた声。

「なんでもいいけど、まず退いて。何してるの?」
「虚実を、生きてる」
「ほう」

 石を引っ掻くような声が僅かに明るくなる。何か琴線に触れるところがあったらしい。掴んだ。すぐにでも切れてしまいそうな直感を手繰り寄せ、途中途中で舌を噛みそうになりながら、慌ててわたしは続きを口にする。

「現実は虚実が裏側で積み重なってようやく見える表層で、わたしは現実を生きている人達の裏側で重なる夢みたいなモンタージュの内のひとつ、で、生きてる」
「ふーん……」

 頭上で、鉄の擦れる音がした。顔を上げたら目を見張るように鮮やかな金髪の女性がいて、わたしが立ち上がるのをじっと待っていた。女性はわたしの背中を突々いて部屋の中に入るよう促しながら、こう言った。「それじゃあ、きみの生きてる虚実がわたしの爪痕の間から覗いた景色と同じかどうか、確かめて」。玄関扉横の表札には「614」と数字が刻まれていて、ここはわたしのうちの「214」から四階ぶん空に近いところなのがわかった。
 居間と思わしき広がった空間の真ん中に、キャンバスがひとつ在る。決してそこにはキャンバスしか無かったわけでも、他に家具が何も無かったわけでもない。ひとりで使うにはすこし大きいソファやテーブル、テレビなど、平均的なひとり暮らしをする日本人の生活空間に置いてありそうなものは一通りあった。ただ部屋の端にぽつんと存在するそれが、神々しいほどの異物感と同時にここにあるべき、あるべき姿でそこにあるのだと主張しながら、静かに共鳴しているのだ。

 正しき、悪夢。掛布の落ちたキャンバスの中に、正しき悪夢があった。どうして今まで知らなかったんだろう。盲目の者が初めて視界を得たような目覚ましいエピファニーの奔流。現実感の遺影はきっとこんな色をしている。わたしはその場に膝をついて落涙した。

「きみも見えるの? 異様に鮮やかでくっきりとした、滴り落ちる琥珀色の樹脂が。この世の風景と同じでありながらその向こうにある、浄化されたように奇妙な光景が。祈りが。見える?」

 女性にバスタオルで頭部を覆われながら、何度も頷いた。だいぶ乱雑な手付きだったのに不思議な安心感に満たされていて、そうしてキャンバスの向こうを見て嗚咽を繰り返しながら、わたしはこの部屋で最初の死を迎えた。この世でいちばん幸福な夭折だった。

 転落防止柵の手摺に灰が落ちて、か細い息を吐いている。落ちた線香花火の亡骸みたいだ。身動ぎした時に落ちたタオルを拾って見上げると、煙草を喫うカフカの難しそうな顔があった。彼女の足元に身体を横たえて、気遣いの塊を顔面に乗せて再び目を閉じてみると、落ちた煙草の煙がお焼香のように掻き消えるのが見える。そんなに時間は経っていないらしい。灰皿持って出るの忘れたな、と身体を起こそうとして、ふと、こうして寝そべっている自分はまるで死体のようだと思った。「死体みたいだなあ」。頭上で彼女の軽快な笑い声が起こる。まったく箸が転んで笑うような歳でもないだろうに。

「それ、その体勢で言ったらお前の方がよっぽど死体でしょう。死体が死体見て死んでるって言ってるの?」

 ほんとうに彼女のツボは読めない。それにわたしが「死体みたいだ」って言ったのは自分自身のことであって、手摺の上の吸殻のことを言いたかったんじゃないのに。起き上がろうとわたしは手摺のほうに手を伸ばして、しかし指先はむなしくも虚を切る。伸ばした腕を、カフカが掴んだ。重力ごとひっくり返ったかのように曇天が視界を覆い包み、真ん中で表情の読めないカフカがわたしをじっと見ている。二度目の、死。

「死にたいの?」

 鋭利な歯牙か、重厚な銃口でも向けられたみたいに背中が栗立つ。思わず「ひ」、と押し出しそうになった声を呑み込み、希死念慮を抱いたことはない旨を込めてカフカを睨み上げた。最大限、怨嗟の籠ったような顔をしたつもりでいたのに彼女は、わたしの顔を見ても掠れた笑い声を喉で鳴らすだけなのだ。

「なんも言うな」
「今日の夕飯なんにしますか、って命乞いしようと思ったのに」
「死体はごはん食べないよ」
「最後の晩餐かもしれないじゃん」

 先に身体を起こしたカフカは何やらスマートフォンを手に取って、そのまま小さなレンズをわたしに向けた。いつまで経ってもシャッター音が鳴らないので、あくまで画面に映しているだけらしい。

「死体みたいだなあ」
「これも絵にする?」
「描くならちゃんと描きたいけど、これはこれで残しときたいな。うん。遺影みたいだし」

 動かない手首でピースサインなんかを作った。ついでに「遺影がいえーい」とか言ってみる。真顔のまま固まった彼女はきっと数秒後に「つまんないの」って笑うんだろうな。雨の降っている日は、死ぬことに適している。死体は自分の死体を見て死んでるなんて言わないので、痛いほど真逆の状態にある現実を突き付けられてしまうのだ。

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