数年前から予測は付いていた。宇宙開闢以来、言語ある存在は、昂然たる文明を築いた。天まで届くほど高尚に築いた。過剰になった語彙とレトリックはサーバーを圧迫し、いつしかログのクリーンアップが必要になってしまったらしい。この事態をタイムライン上に観測したのは、わたしの知人だった。わたしを筆頭とする文学者たちは、あたらしい言語を学ぶために没頭する。すべてが抹消されて新しいサーバーまで拐かされてしまう前に、建てた塔を統合し、更に軽量化まで叶えられる言語を築こうと熱中する。感傷家に転向する者もあったが、文学者たちが感傷する者たちの行いを疎んずるようなことは決してせず、それらは形態の異なる文学として、また興味深く学ぼうとした。言語の形態は星の数ほど存在するが、決して小説家の仕事とは感傷することではなかった。

「はははははははは」

 横断歩道の向こうで、代風花が大声を上げて笑ってる。一先ず身の安否は無事らしい。彼女を含む画家たちの文学について、文学者たちは浅学である。わたしは幼少期から彼女と親交があった。誰かの飛ばした与太を拾って返す彼女の声は文学的なのだ。彼女は、絵を描けなくなったのだろうか。彼女本来の用いる文学は、きっとまた別のものだったのではないだろうか。

 実のところ、他人の心配をしている余裕は少ない。わたしは小説家だ。文学者の端くれだ。文学、それも言語が失われてしまっては身動きが取れない。上手い嘘も吐けないし、飯も食えない。認識できるもの全てが滔々と熱を喪失した。公園の真ん中で佇む噴水も、口を噤んで黙っている。彼女の文学は水そのものだったらしい。少なくとも彼女の場合なら、ちょっとお喋りに疲れてしまっただけのようにも見えるけど。

 宛もなく、鞦韆に腰掛ける。何処からともなく現れた猫が、膝に乗り上がってきた。猫が、鳴き声らしき電子音を発する。猫の文学は鳴き声だったのだろうか。生物というより、壊れたラジオのような機械の発しそうな音だ。わたしはこの猫と壊れたラジオの間を比喩という楔で結ぶ。これが、かつての文学者たちが利用した文学というものだ。楔は宙へ宙へ長閑に立ち昇り、手の届く前に頽れる。かつての文学は履歴に残っているフォーマットから綺麗さっぱり抹消されてしまったので、この手法それ自体も拡張子が合わなくなってしまったらしい。一連の動作の間、黙って鞦韆を漕いでいたとかげが、矢庭に猫を抱き上げた。そのまま一口に呑み込んでしまった。

 わたしは感嘆符を音声にして発しようとするも、鼓膜を打ったのは空気のふるえる柔い衝撃のみだ。わたしの文学は言語そのものとして発現していたから、言語それ自体が抹消されてしまった後では声すら出せない。とかげは咳払いでもするかのように短い息を連続して吐いて、そして壊れたラジオのような音を発した。とかげは、存在できなかった新しい言語を創り出したのだ。

「とかげちゃんさ、一回だけじゃないでしょ。初期化を繰り返し過ぎるとリセットまでのスパンが短くなって、そのうち五日周期ぐらいでダウンする様になると思うよ」
「……」
「いつになったら諦めるつもりなの」
「……たぶん、お前の最期を看取るまで」
「喋りづらそうだね」

 これ以上は分割できない時間と空間の絶対単位。宇宙を形作る電子的な素材。すべての質量ある存在は、時空素によって構成されている。化学やこの世界の多様性はフェルオンの性質を持ったまま存在するので、まったく同一のものとして存在することは不可能だ。しかし素粒子はスピンを持っている。その回転する個々の周波数が嚙み合わない軸を基にして、わたしととかげは個々に新たな文学を得たのだ。

 わたしは感傷する者たちのために、ここまでの記号をすべて記憶しておかなければ、と義務的に固執する。風をはらんで、彼女のフードが落ちた。項垂れていて、表情のわからない彼女の顔面は、そこら一帯だけが空間ごと切り取られたように、永遠の無の境地だけが黒々と広がっているのだ。彼女は感傷家ではなかったらしい。わたしは誰のために、この感傷を記憶しておくべきなのだろうか。感傷した。そして筆を執った。わたしには判読不能な言語で紙面が埋まる。とかげが、わたしの手を握った。とかげは泣いていた。正確には嗚咽を繰り返す肺のような動きをしているだけだ。わたしがそう思いたいだけ、それだけ。再起動を実行する前に、とかげの鎖骨に噛み付いた。

 かげの薄いひとだ。比喩ではなく、存在感がとても希薄。少女の吐息が表像した蜃気楼みたい。この世に存在するための神経の糸を緩めたら彼女は、空気に溶けてそのままどこか別の次元と融合してしまいそうに見える。
とかげと邂逅したとき、わたしは手元に転がる分詞を繋いで、そうして初めてとかげを比喩した。曰く、とかげは代風花の旧友で、彼女も芸術を職業として扱う者らしい。思えばくいぜを刺しておいて無責任なことだ、わたしは代風花との再会に歓喜するばかりで、会合を重ねてもとかげの姿は眼中に無かった。既にとかげはわたしと同じ出版社から画集を出しているとのことで、新しい短編集の表紙をとかげが描くことになったと、担当の編集者から連絡があったような気がする。その後の記憶は不明瞭で、何度ログを検索しても見当たらない。とかげの手によって消去されてしまったらしい。

「また次の宇宙で逢ったら、今度は私のともだちになってくれる?」

 倒壊したバベルの砂礫に埋もれて、花が咲く。有機的な熱を持った硝子の花が、静謐に揺れている。崩れた塔の瓦礫の上に土が積もり、新たな地盤として、点々と塔や電柱が並んだ。とかげはこれを街だと言った。

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