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常守朱は完全に無力だったのか?――PSYCHO-PASSにおける音楽性と運命

 PSYCHO-PASS第1期に限って言えば、常守朱は完全に無力だったのかもしれない。作中で肉体的にも精神的にもあれだけ傷ついたにも関わらず、彼女は1期第22話『完璧な世界』での結末を、狡嚙と槙島という二人の男たちの物語を変えることが出来なかった。というより、もはや彼女にはそこに介入する権利すら与えられなかった。ただ彼女に許されたのは、麦畑に響き渡る銃声を耳にして膝から崩れ落ちることのみであった――誰にも届くことのないモノローグを独り言ちながら。「2人は初めて出会うより以前から…ああなる運命だったのだろう。」
 とはいえ、常守が2人の物語に触れるタイミングが一度だけあったとすれば。そう、槙島が常守に銃口を向け引き金を引くシーンである。偶然にもリボルバーは弾切れで不発、槙島は何かを悟ったかのように「そうか、君は……」と意味深な一言を浮かべ、常守に背を向けて歩いていく。
 謎の多いこの発言に対して、Google検索の1ページ目を眺める限りでもいくつかの考察を垣間見ることが出来る。常守も免罪体質者だったのか説、シビュラの犬ではなかったのだな説、厚生省ノナタワーで殴ってきたやつだったのか説などがその例である。PSYCHO-PASSという作品が読者ごとの多様な読みを可能にする魅力的な作品であることは重々承知の上で、ここでは公式とされる説を紹介したい。2013年に開かれたBD&DVDの発売イベントにおいて、このセリフの続きが「そうか、君はここで死ぬ人では無いのか」であることが明かされている。

関さん:槙島が朱ちゃんを殺そうとした時に「そうか、君は……」って言って撃つのを止めるじゃないですか。意味合い的には「君はここで死ぬ人では無いのか」という事なのですが、実はリボルバーに銃弾が入って無かったんですね。あれは、狡噛が朱ちゃんがリボルバーを持っていくことを計算して、弾を減らしていたんですよ。
塩谷さん:朱ちゃんが槙島か狡噛のいずれかを撃つ時に必要なのは1発。でも、結果としてタイヤに向かって弾を打ち込んで、その結果になったというわけです。

BD&DVD発売記念イベント

その後槙島は常守に見向きもせずに歩きだすのだが、そもそもなぜ常守は「死ぬ人では無」かったのか。槙島にとって狡嚙が特別な存在だったことは言うまでもないが、常守はどういう存在だったのか。以下では、槙島の「音楽性」と「運命」というテーマを紡ぎながら、この問題について少しばかり考えてみたいと思う。

 考える上で一つだけ前提を導入しておきたい――それは「PSYCHO-PASSの世界観において、身体性と言語という2つの極が存在している」という前提である。これだけでは言葉不足な感が否めないので、少し噛み砕いて説明する。
 PSYCHO-PASSの魅力のひとつとして、まず刑事課を中心としたアクションシーンの多さとその迫力とを挙げることが出来よう。ドミネーターによる執行のシーンも良いが、特筆すべきは直接的(肉体的)な戦闘の多さである。特に狡嚙が関わっている組み手的な戦闘の回数は、第1期から第3期FIまで合わせて数えると合計15回にも及ぶ。しかしながら、これはドミネーターという執行装置がある近未来の刑事物として作品を見たときには少々多いように感じられる。これほどまでに直接的な交戦を行うのは、(ドミネーターが通用しない相手だからだという当然の反論はあるにしても、)刑事としてはあまりに危険な振る舞いだ(実際狡嚙は、物語の主人公とは思えないほど何度もボコボコな目に合っている)。あるいは、刑事課の面々のトレーニングシーンやシャワーシーンの複数回にわたる描写、さらには唐之杜と六合塚の関係性等も含めて、PSYCHO-PASS作品におけるフェティッシュなほどの身体性の重視を指摘することはさほど突飛な発想ではないと思われる。
 一方で、刑事課に対比されるものとして描き出され、身体性から最もかけ離れた存在がある。2061年以後の日本社会の根幹を支える存在としての「シビュラシステム」である。言わずもがなシビュラシステムの実態は免罪体質者たちから取り出した脳を繋ぎあわせたものであり、その並列処理によって、社会全体に「公平」で究極的な審判を下すことがその目的とされている。公安局局長・禾生壌宗(3期では細呂木晴海)という仮のアバターを持ってはいるものの、裁きの過程において身体は一切必要とされないのだ。そのかわり彼らは、「一般倫理にとらわれない特徴的視野」によって思考し、社会の善悪を判断する。これは言語――もちろん我々が思うような一般的な「言語」ではないかもしれないが――の卓越した働きによってのみ成り立っている。
 では、身体性と言語というこの2つの要素がどのように物語に影響してくるのだろうか。それを解きほぐすために、まず「ドミネーター」と「紙の本」という2つのキーアイテムに注目してみたい。
 結論を先取りするならば、シビュラによって統制された社会とは、言語と身体性が分断された状況である。一方、槙島聖護という悪役が持つ「紙の本」は言語と身体性を結び付けるものであり、シビュラ社会を転覆させようとする槙島の象徴として機能している。


ドミネーターというシステム、あるいは引き金

 2061年以降、日本社会は鎖国を選択し世界で唯一平和な国となったのであるが、それは導入されたシビュラシステム(以下シビュラ)によってなされている。市民はその心理状態や傾向特性を測定され、就職先や結婚の相性のような人生の選択までをシビュラによって決定付けられる。しかもその決定プロセスは完全にブラックボックスであり、我々から見るとなぜそのような不可視の神の信託に頼るのかと言いたくなるくらいでもある(しかし現代の我々もまた車のエンジン機構を知らぬまま運転できるし、Google検索のアルゴリズムなど知らずとも検索結果を無自覚に受け入れているが)。そう、シビュラは神の信託なのだ。世界の事物を全て掌握し制御するものとして描かれていることに大きな反論はないだろう。しかしここではあえて、本作キーアイテムの一つである「ドミネーター」から、シビュラと刑事課、あるいは市民の関係をもう一度解きほぐしてみたい。
 シビュラと刑事課、この対になる存在を結びつけるのがはドミネーターという特殊拳銃である。周知のとおり、ある人物なり物体なりにドミネーターを向けるとシビュラによる判定が即座に下され、犯罪係数の結果に応じて執行するかどうかが決定する。いわば文字通り、シビュラに選ばれなかった人間たちの「支配者」として君臨するということである。確かにもう一つの機能、すなわちドミネーターが狡嚙や常守といった刑事課の面々の行動を指図しているという機能を考えてもそれが分かる。犯罪係数が100オーバーなのか、もしくは300オーバーなのか、その数値の結果のみが刑事課の取るべき行動を決定する。あるいはより直接的に持ち主に語り掛けてくる場合もある。例えば狡嚙を宜野座に執行させようとしたように。
 さて、ここで刑事課における執行官の扱いを振り返ってみよう。「猟犬=ハウンド」や「首輪」といったメタファーが端的に示すのは、執行官はいつでもコントロールを失って暴走を始める可能性があるということだ。PSYCHO-PASS世界において格闘術を体得しているのは、刑事課の面々かもしくは廃棄区画の人間だけだろう。そもそもスポーツアスリートの色相すら濁りうることを、我々は3期において確認している。なぜか?それは過剰な身体性が、社会にとって予期せぬことを巻き起こす可能性を有している(とシビュラが判断している)からではないか。すなわち、行き過ぎた身体性にはある種の狂気が宿るのである。
 このように考えた時、シビュラによるドミネーターを介した執行官への命令は、言語による身体性への制限であるととりあえず結論付けることが出来る。ついでに言うならば、これは狡嚙たちだけでなく、色相がクリアな常守たち監視官に対しても同様に働きかけるだろう。というのも、監視官のコードネームもまた「シェパード」という動物なのだ。
 とはいえ、ドミネーターの持ち手が一方的に支配されていると結論付けるのは早計である。ドミネーター作動時の機械音声「携帯型心理診断鎮圧執行システム ドミネーター 起動します」の通り、ドミネーターは単なるツールでも武器でもなく、システムなのである。システムという言葉を定義することはあまりにも難しいが、ウィキペディアの一文目をそのまま取り上げることにしよう。「システム(system)は、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、まとまりや仕組みの全体。」相互の影響性が認められなければならないとすれば、執行官からシビュラに対しても何らかの矢印を向けることが可能になるだろう。そんなことは可能なのか?可能である。そう、シリーズの注意深い視聴者であれば、あの言葉が脈々と受け継がれていることに気づいているだろう。「ドミネーターには「引き金」が付いている」というあの言葉を。
 シビュラによる執行は、基本的に執行者の存在なくしてありえない。執行者がその最終的な権限を握っているからこそ、犯罪係数が299まで下がるのを待ってから執行した常守朱のような行動が可能になるのだ。「人が法を守るんです」という彼女の行動鉄則は、まさにあの引き金に象徴されている。悲観的には、最終責任をすべて自分が負わねばならないという見方も出来る。しかしここは常守にならって肯定的に捉えることにしよう。少し前の段落で、行き過ぎた身体性があらゆる可能性をもたらす危険性を有している事、そして言語がその身体性を制限していることを指摘したばかりである。しかしながらここで逆向きの主張を行うことが出来る――身体性こそが言語を制限しているのだと。
 あらゆる単語は、最低限の文法を守る限りにおいてあらゆるものを表現することが出来る。それは必ずしも現実に存在するものでなくともよい。「熱い氷」のような現実にはあり得ない概念であっても、言葉遊びのレベルで無限に作り出すことが出来るからである。シュールレアリスムの詩学が目指したものがまさにそれだ。言語によってあらゆる真理さえも創造できるとすれば、言葉こそがイデアであり、プラトンのいう魂であり、泉宮寺豊久も言っていたように「肉体は魂の牢獄」なのだ。しかし、行き過ぎた言語もまたある種の狂気が宿るといわねばなるまい。そうした空想的なあり得なさを拒絶して現実に引き戻すためには、あくまで身体性に根付いた言葉の取捨選択をせねばならない。それが「熱い氷」を生み出さないための条件であり、またシビュラによる理不尽な判定に人間が抵抗するためのトリガーなのではないか。
 長くなったので一旦まとめることにしよう。刑事課はシビュラによって一方的に制圧されているのではなく、ドミネーターによって互いが互いを監視し制限し合っている。それはともすれば過剰に連結してしまいがちな身体性を言語によって、あるいは言語を身体性によって制限・切断するシステムとしてある。この関係性を、PSYCHO-PASSの管理社会における身体性と言語との基本構造として定義づける。もちろんシビュラ自身は自ら、すなわち言語が絶対だという信念のもとに行動していることだろうが、あくまで基本構造が理念型として存在していることが大事なのだ。分かりやすく言い換えれば、検察の人事を内閣の意のままに操作しようとするようなある国が、その基本構造として三権分立を掲げているように。
 ここまでドミネーター一筋で論を追ってきたが、もちろんこの限られた装置が社会構造全体を鏡のように映しているとまでいうつもりはない。勘のいい読者であれば、ここまでの論が日本社会に大多数存在している一般市民の存在を忘却していると指摘するだろう。しかしながら新型コロナウイルスが流行した今、我々は最もリアルな形でPSYCHO-PASSの世界市民を体感している。ウイルスは目に見えない形で市民の身体に潜伏し、誰もが潜在犯となる状態を作り出している。1期第1話でサイコ・ハザードによって潜在犯落ちした女性がいるように、心ない感染者がその気になれば、健常者であってもたやすくウイルスの感染者になり、本人や家族までもが差別の対象となる。その危険性から身を守るための方策が個人レベルでは徹底的にひきこもる事、そして集団的には自粛警察として互いに監視・制限しあうことだということを、今生きる我々は文字通り肌で感じているのではないか。ウイルスを診断される2020年の市民も、そして犯罪係数が計測される2060年代の市民も、どちらも恐怖を感じていることに変わりはない。それは単に見えないという理由だけでなく、それが自らの実存に関わってくるものだからだ。そしてそこから逃れるためには、全てを監視し制限し、切断することが最も楽な行動なのだから。
 2060年代以降の日本社会においては、あらゆる危険も偶然も排除される。それは生得的な資質を持つエリートたちの中に能力を持ちえないものが混ざってしまう可能性を徹底的に消去するものであり、同時にシビュラの存在価値を自己強化する意義を持っている。ドミネーターの銃声は、「能力主義社会における隙間は一切許さ(れ)ない」という叫びとして日本社会に響き渡っているのだ。


対比される槙島と「紙の本」

 ここで一つ指摘しておかねばならないのは、物語においては言語よりも身体性の方が好意的に描かれているという点だ。刑事課一係の執行官の多くは、シビュラ社会において一般的には必要とされていない趣味や嗜好を持っているようだ。六合塚の(元公認ではあるが)音楽、狡嚙の煙草、縢の手料理、征陸の絵画。暴論を承知でまとめるならば、どれも「効率」からかけ離れている。しかしそれこそ、システムに抗うための僅かな手段なのかもしれない。そしてそれは槙島というキャラクターを通してもっとも力強く描かれているのではないか。より破壊的に外部からシステムを撹乱するキャラクター――槙島聖護が現れるのは物語の中盤以降となる。免罪体質という生得的な体質によってドミネーターの裁きから解放されている彼は、いかなる犯罪を犯しても執行されることがない。彼の存在そのものが社会システムの境界を揺るがしていることに気づいたシビュラ、そして常守・狡嚙は、三者三様の思惑で槙島と対峙する。
 さて、常守や狡嚙が常にドミネーターを携帯しているのに対し、槙島のイメージが「紙の本」であることに異を唱える人は多くないだろう。作中では彼が愛読する様々な哲学者の名前が引用されているのは周知の事実であり、ホームページに掲載されている槙島の立ち絵もまた、右手に茶色いハードカバーの本を携帯している。「紙の本を買いなよ」という言葉はあまりに美しく、電子書籍が流行らないとしたらそれは世界中に存在する槙島係数100オーバーのファンたちのせいだと思われる。では、この「紙の本」をどのように解釈することが可能なのだろうか。なぜ彼は「紙の本」にこだわるのだろうか。
 最も単純に、無駄を好む余裕があるからだという答えを与えることが出来よう。それは本だけでなく、彼が愛用する武器にも見ることが出来る。曲線の装飾が施された折り畳み式カミソリは確かに美しいが、その持ち手は比較的細くグリップもないため、とても戦闘に向いているとは言い難い(戦闘経験者のような物言いだが残念なことに経験はない)。しかしそれでいて、彼には狡嚙を圧倒できる余裕を持ち、それを楽しんでいるように見える。しかしここからもう一歩だけ話を進めてみたい。
 槙島が本の物質性こそを好んでいることは、1期第15話『硫黄降る街』におけるチェ・グソンとの会話を聞いていればわかる。「電子書籍は味気ない」と一刀両断するように、彼は紙でしか味わえないきめを楽しんでいるように思える。漢字で「肌理」と表されるように、それは人間の肌に直接作用する感覚である。考え事をするときにお風呂につかったり散歩したりするのも、ある意味では槙島に似ている。つまりそれは言葉と身体を別々に分断するのではなく、身体と言葉を繋げてみるということなのだ。
 より正確にいうなら、槙島にとっての言語は詩の言語である。連なった言葉による空想が我々をどこか旅に連れて行ってくれるような言語であり、分断された身体性を回復してくれるような言語である。それはこれまで見てきたような、常守が依拠するような「法」の言語とは真逆のものとして位置づけることが出来るだろう。


槙島の「音楽性」と「運命性」

 ここまでで、シビュラと槙島が対比される存在であることを、「ドミネーター」と「紙の本」を通じて再確認した。しかし、「紙の本」の表現についてもう一つ気になる箇所がある。『硫黄降る街』での槙島の台詞を抜き出してみよう。「精神的な調律、チューニングみたいなものかな」「調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をぺらぺらめくったとき瞬間的に脳の神経を刺激するものだ」というように、彼は紙の本を手にしながら「調律」という言葉を用いている。なぜ感覚の「調整」ではなく「調律」という言葉なのだろうか?1期9話『楽園の果実』で、狡嚙は常守を連れて雑賀教授のもとを訪れる。そこで狡嚙は、槙島のことを次のように表現する。「まるで音楽を指揮するように犯罪を重ねていく男です」――と。槙島を取り巻く音楽のイメージは、その死に目のシーンにBGMとして流れるクラシック調の曲「楽園」で最高潮を迎える。この槙島の音楽性をどう読み解くことが出来るだろうか?結論を先取りすれば、それは自己の存在理由の希求なのではないか。
 重要なポイントだが、PSYCHO-PASSの社会においては、人々の行動にも、そして存在そのものにも理由なんてものは存在しない。周知のとおり、一度サイコパス検診に引っかかってしまった市民は誰もが矯正施設行きになり、その後の人生は水泡に帰す。しかし先述の通り犯罪係数計測の仕組みは全くのブラックボックスであり、ある程度の予測は可能にしても、色相の濁りを完全に抑え込むことは出来ないのである。1期第1話、物語で初めに執行される大倉の語りは切実だ。「俺はな、今日まで誰よりも真面目にやってきた。誰も怒らせないように、誰の迷惑にもならないように。」至って普通の生活を営んでいるつもりでも、理由なく執行対象として矯正施設送りにされてしまう。あるいは、縢や六合塚のように矯正施設から執行官として引き抜かれる事例もある。しかしなぜ縢や六合塚でなければならなかったのだろうか?少なくとも作中において、施設からの復帰に必要な特別の理由は明示されていない。それは「運命」だったと切り捨ててしまえるほど冷酷なほどに。
 逆に選ばれた人間もいる。常守をはじめとする公安局のエリートたちだ。1期20話『正義の在処』における常守の回想によれば、就職先は最終考査のスコアとサイコパスによって判定されるものだと分かる。しかし言い換えれば、要素が同じであるという理由それだけで、誰もが公安局のエリートになれるし、あるいは誰もが潜在犯として施設に隔離されるのだ。すなわち、選ばれた存在と選ばれなかった存在は容易に反転する。サイコパスの傾向はおそらく生得的に決定されるものであり、努力は無意味なのだ。わたしはあなたであった可能性もあるし、あなたがわたしであった可能性もある。そこに理由は一切存在し得ない。1期第2話『成しうる者』において縢は、うどん(?)を口にしながら「生まれてきた意味」を問う常守の純粋さに苛立ちを見せる。「意地悪するつもりはなかったけどさ、気が変わった」のは、彼が5歳にしてサイコパス検診にはじかれたその「運命」の原因を、常守に押し付けて仮想敵に仕立て上げたかったからだろう。
 槙島はサイコパス測定が出来ないという意味ではシビュラ的ではない。しかしながら彼もまたシビュラ的な「運命」に翻弄されていた。1期19話『透明な影』で、逃亡生活を送る狡嚙は雑賀教授と再び会い、そこで槙島の原点が「孤独」なのではないかと語る――シビュラの目に映らないことは特権ではなくむしろ疎外感であり、人間としてカウントされたかったのではないか、と。第3期FIで語られているように免罪体質は生得的なものであって後天的に発現するものではない。2期第8話『巫女の懐胎〈AA〉』、第9話『全能者のパラドクス』にかけて人工的に免罪体質者が作り出されていることが明かされていることから、おそらく免罪体質者が生まれる科学的な理由にはおおむね検討がついているのではないかと思われる。しかしながら科学的な理由は、「槙島が」免罪体質者として生まれたことの説明にはなり得ないのである。彼も理由なく「選ばれた」のであり、その意味でシビュラ的な運命の被害者に過ぎない。
 そのようなPSYCHO-PASS世界の「理由のなさ」と対比するものとして、音楽を位置づけることが出来るのではないか、というのが本論の大きなポイントである。自分の好きな曲を思い浮かべてみてほしい。『abnormalize』でも『名前のない怪物』でも良い。そして、曲が曲であるとはどういうことか考えてみよう。一つの曲は、ボーカルが歌う主旋律、ギター、ベース、ドラム……といったいくつかの構成要素によって成立している。演奏するときには当然それぞれの担当を切り分け、別々の演奏を同時に行うわけである。視点をより細かくすれば、その音楽は一つ一つの音を連続的に鳴らしていくことで、音楽として成り立っている。当たり前のことと思うかもしれないが、よく考えると実に不思議なことだ。還元してしまえば一つ一つの音でしかないのに、それらが繋げるだけで、一つの音楽としてある雰囲気がたちあがる。そういった概念として「創発」という言葉が使われることもある。
 ここで大事なのは、その音一つ一つが、なぜかその音でなければならないという必然性を持つように思えるということだ。例えば『名前のない怪物』のサビの歌い出し、♪「黒い鉄格子のなかで」という箇所はもはや聞きなれすぎていて、それ以外の音程の組み合わせはあり得ないように思えてしまう。例えば「鉄」にあたる音がこれ以上高くても低くてもいけないし、音がこれ以上長くても短くてもいけない。周りの音との関係性の中で、「鉄」の部分の音はその音でしかありえないように聞こえるだろう。
 音は決して、それ単体では成立しない。しかしながらそれでいて、他のどの音でもなく「その音」である必要性がある。そういった必然性は「シビュラ的運命」とは別種の「音楽的運命」であり、また槙島が求めたものだったと考える事はできないか。彼が生まれながらにして背負ったものは「理由なき孤独」だった。そんな彼が、「周りとの関係性の中にあってなおかつ、それ自身である必要性がある」という音楽の特性を好んでいたのは、決して不思議なことではない。狡嚙によれば、槙島は「指揮者」なのであった。しかし実際には「演奏者」になりたかったのだろう。その特性で周りと調和する「演奏者」として、音楽的な「運命」として。
 音楽のリズムもまた、紙の本の手触りと同種の身体性を持っている。楽しげな音楽で体を揺らしてしまうことがあるように。歌詞という言葉とリズムという身体性が混ざり合って成立する音楽は、シビュラがもたらす言語と身体性の分断に真っ向から対立する概念としてある。槙島が手にする紙の本はそのようにして、ドミネーターと対比させることが出来る。


音楽の終わり

 1期最終話『完璧な世界』のクライマックスを振り返ることにする。旧大学跡地から脱走を図る槙島のトラックを執念で追いかける常守は、銃を発砲しタイヤをパンクさせる。吹き飛ばされて麦畑に臥す常守の前に槙島が立ちはだかり、常守の頭に向けて発砲しようとするも、残弾はない。「そうか、君は……」という言葉を投げかけた槙島は、追ってきた狡嚙によって頭(?)を撃たれ、物語が終わる。
 冒頭で引用したとおりだが、銃の残弾が偶然足りなかったがために常守は助かったのではない。常守が持っていく事を見越した狡嚙の策略であり、言い換えれば常守の生存という運命は狡嚙によって仕組まれていたのである。そのことを理解した槙島は、狡嚙と常守の間に、自らが夢想していた「音楽的運命」を見出したとはいえないか。そして対照的に自らがどこまでも孤独であり、「シビュラ的運命」から逃れられない存在であることを悟ったのではないか。
 いやむしろ、槙島はその孤独な運命を認めぬために死を選んだのではないかとさえ思える。死の間際、最後の最後、槙島は狡嚙にこう問いかける――「君はこの後、僕の代わりを見つけられるのか?」「いや……もう二度とごめんだね」という返答を耳にして、槙島は満足げな表情を浮かべる。それは槙島にとって理想的な形で、狡嚙と槙島という運命的な関係を終わらせるということだったはずだからだ。
 音楽におけるある一つの音は、たしかにその音でなければならない。しかしそれは音楽が完成したとき、つまり音楽が終わることではじめて確かめられる。槙島はこのタイミングで自らの人生を終わらせることによって、狡嚙との関係性を格別な一つの音として仕立て上げたのだろう。
 そうして槙島は、自らのシビュラとの闘争を彼らに託した。常守はなぜ「ここで死ぬ人では無」かったのか。それは常守が、未だシビュラにとっては特別な一音では到底なかったからではないか。少なくとも槙島ほどには見向きもされていなかっただろう。いつか常守がシビュラの電源を落としにやってきて、シビュラを終わらせることを望んだのかもしれない。常守朱はかつては完全に無力だった――しかし第3期を迎えた今は、もはや無力ではない。彼女の望む「完璧な社会」への布石は、着実に打たれているところだろう。


おまけ

 いろいろと脱線しながらここまでやってきたが、最後に一つだけ言及して終わりにしたい。それは「引き受けること」である。第1期が終わったのち、狡嚙は劇場版やSS3といったいくつかの作品に渡り、槙島の亡霊に悩まされることとなる。単純化すれば、槙島の思念に言語のレベルにおいて呪われているといってよい。亡霊とは、その人にとって予測不可能なタイミングで現れる断片である。それはまるで音楽の途中に不規則に入り込むノイズのように、音楽を使い物にならなくしてしまう。特に劇場版狡嚙は槙島というノイズに対抗するために、それを徹底的に除去しようとしていた。
 しかし同時に別の方法もある。ノイズもまた音楽の構成要素だと認めてしまうことである。例えば、観客の声援と一緒に作り出すライブ音楽のように。征陸を亡くした宜野座は父親との関係を修復し、同じ左手に義手を装着していたのだった。これを故人の思いを身体的に引き受ける行いと考えた時、ここにも言語と身体性の対比を見ることが出来るのかもしれない。

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