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「大アンジュルム小説(あるいはセカイ系まよハロ)」を書いています、という話

今日は少し個人的な話をします。一部の人には既にお話ししておりますが、現在「大アンジュルム小説」を鋭意執筆中です。

以前、別記事でも書きましたが、自分は元々細々と兼業作家をやっている人間でして、ある日「本田美奈子.をモデルとしたファンタジックオペラを書きたい」と思い立ち、「本田美奈子.に憧れる10年代のアイドル」というキャラクターのモデルを探し始めたことが、アンジュルムに興味を抱いた最初の切っ掛けでありました。それ以来、アンジュルムの沼にハマって早5年…でも、沼にハマったままでは悔しいので、何とかアンジュルムを主題にした小説を世に出したい、と思い、色々と模索を続けてきました。が、これがなかなか難しい。その理由は、大きくわけて二つあります。

⑴アンジュルムはどんな虚構よりも面白い現実である

これは、林拓郎さんが書かれていることがその通りだと思います。とにかくアンジュルムは実物が面白すぎて、彼女たちをモデルにしたキャラクターを作ろうとしても、どう頑張っても実物より面白くなくなってしまうのです。これは実際自分がこの数年間で何回か試みて、何度も失望を覚えたことで実証されております。最初は自分の才能の無さに絶望を抱いたものですが、最近では「自分の書くものが面白くないのではない。アンジュルムが面白すぎるのだ」という具合に前向きに捉え直すことにしております。


⑵昨今の出版業界の事情

もう一つは、ここ数年の出版界をめぐる激変が挙げられます。私が商業作家としてデビューした当時(2010年頃)は、まだ当時の私の版元のような大手出版社には一定の懐の深さがあり、私のような比較的癖の強い作品を書く作家にも出版の余地が残されていました。特に自分の場合元々「ベストセラーを出したい」という思いが微塵もないため、ただ自分が書いて楽しめるものを書きつつ、「大手出版社ゆえのそれなりの発行部数」に由来する安定した印税収入を確保できることを旨味に感じていたのですが、10年代の半ばくらいからその辺りの締め付けがだいぶ厳しくなってきたのです。

ただ、近年フィジカルな「書籍化」のコストとリスクがどんどん大きくなっていることを考えると、出版社側があらかじめ「売れそう」な作品の執筆だけを作家に要求することは、やむを得ないことではあると思います。なので自分も最初は、担当編集による要求の範囲内で自作に「アンジュルム要素」を盛り込むべく色々と模索してきました。しかし、ただでさえ「アンジュルムを虚構化すること」のハードルに加え、「担当編集のGOサイン」というハードルが加わってしまうと、結局「あぶはち取らず」の方向に作品が迷走してしまい、これではどうにもならないな、と頭を抱えているうちに、世の中はコロナ禍に突入していったのです。

そこで自分が考えたのはまず、⑴のハードルをどうするか?ということでありました。そしてその際、自分に大きな示唆を与えてくれたのは、コロナ禍と軌を一にするような形で拡大する「大アンジュルム」の宇宙だったのです。

既に述べたように、「アンジュルム」という具体的な存在を具体的な形のままで物語のメインに据えようとすると爆死します。これを上手く料理するには、具体的なキャラクターとして彼女たちを登場させることは最小限に留めつつ、「アンジュルム」という主題に沿った他の素材(キャラクターであり世界観であり物語そのものであったり)をふんだんに準備する必要がある。その点で、コロナ禍における大アンジュルム(特に和田彩花と福田花音)をめぐるあれこれは、こうした様々な素材を自分にもたらしてくれるものでした。彼女たちが世界と格闘する中で見せてくれたエピソード、彼女たちの周りに集まってきたキャラクター、彼ら彼女らが発信してきたメッセージ、これらを換骨奪胎すれば、つまり、「アンジュルム」ではなく「大アンジュルム」を主題とする形であれば、十分に面白いお話が書けるのではないか、と思うようになりました。

そんなわけでこの二年間、現実の大アンジュルムの動きを追いつつ、これを反映させる形で、ストーリー、キャラクター、世界観の構想を練ってきました。そして今回の年末で自分が数年間かかわってきた本業の研究プロジェクトの原稿が脱稿となり、毎年恒例の年始の繁忙期が終わったタイミングで、執筆に取りかかりました。

2月2日から書き始めましたが、二週間ほど過ぎたところで初稿の序盤を書き終えました(今のところ文庫本で110ページくらい。今の体感だと全体で文庫本で350ページくらいになる予定です)。長篇小説なので、後々に序盤の歪みが響かないよう、ここで一旦筆を止めて加筆修正に入ります。まだ初稿なので人に見せられるようなものではありませんが、キャラの動きやストーリーのグルーヴ感は及第点に達していると感じられ、このまま書き続けても問題はない、という臨床実験をクリアした段階と言えます。ただし、ここまで筆を進めてみてはっきりしたこともあります。それは、

この話は、とうてい出版社を通して出せるものではない。Web上で発表した方がいい。

自分がそう感じた理由としては様々なものが挙げられますが、あまり枝葉末節の話をしても仕方がないと思うのと、物語そのもののネタバレになるようなことを言い過ぎないようにしたいということもあり、ここで詳しくは述べません。とりあえずその理由の一つには前述の出版界の事情があり、もう一つには後で述べるような今回の物語の「形式」の問題があります。ただ、いずれにせよ、ここらで腹を括ったほうがいいな、ということを思いました。たとえば出版社を通して小説を発表する場合、小説の発売情報が出版社から公式に発表される前に、作家が「今こういう話を書いています」と発信するようなことは、本来ご法度です。しかし、Web上で発表すると決めた以上、なるべく早い段階で名乗りを挙げておいた方がいい、と感じたのです。その理由は二つはあります。

その一つはいたって個人的なものです。私のような怠惰な作家には、執筆に追い込む外的強制力が必要不可欠です。出版社を通す場合には担当編集がその役割を果たしてくれるのですが、Web上で発表するとなると、当然担当編集はいません。なので、なるべく多くの人の前で「今、大アンジュルム小説を書いてます!」と公言して、自分を追い込んでいった方がいい。特に自分は煮詰まるとTwitterやnoteに逃げる癖がありますから、そういう時に「ああ、こいつサボってるな」と周りから思われるような状況を予め作っておいた方がいいわけです。

もう一つは、「大アンジュルム世界においては、なるべく早く名乗りを挙げておいた方がいい」ということです。元々アンジュルムというグループにはそういう文化があり、彼女たちの「名乗り」に呼応する形で各方面から「仲間」が現れ、どんどん大きなうねりが作り出されている、という話は、このnoteでも何度も触れている通りです。そしてこの傾向性は、アップフロントという事務所を通さないアンジュルムOGの動きにおいては、さらに顕著でフットワークが軽く、各方面とインタラクティブなものになっています。実際、とりあえず「名乗り」さえ挙げてしまえば、あとは「え? そんな簡単に話が進んでいくの?」と呆気にとられるような光景を、この2年で何度も目撃しているのであります。

で、そのことは、小説というそれ単体では本当にか弱いメディアと成り果ててしまったものに何の因果か携わっている人間としては、大きな希望になりうるのです。自分はほとんど偶然の産物として創作に手を染めるようになった人間ですが、もし創作者としてのキャリアを最初から真面目に歩み直せるのであれば、間違いなく小説のように費用対効果の悪い分野ではなく、映像分野の道を選んだと思います。今日の日本で商業小説の多様性が落ちてきているのには、一つには「小説というメディア形式」の限界という問題もある気がしていて、この限界を克服するためには、最初から他の形式を備えたメディアとの連携を模索した方がいいのではないか。そしてそのためには、「今、大アンジュルム小説を書いてます」となるべく早いうちから名乗りを挙げておいた方が良いのではないか、という話です。もちろん「折角名乗りを挙げても作品が仕上がらない」というのは無責任な話ですが、ここまでの臨床実験の限りでは、「これは物語として仕上がるな」という手応えは得られましたし、出版社を通さないのであれば、先方の意向でこの作品がお蔵入りになる、という可能性もありません。つまり、遅かれ早かれ、この作品が世に出ることは確定です。よって「責任」は果たせる、と判断した次第です。

さて、少し抽象的な話になってしまったので、あまり先に語りすぎて後々の興を削がない程度に、作品についての具体的な話に移ろうと思います。

⑴大アンジュルムな配役

ここで「大アンジュルム」という言葉を改めて定義すれば、狭義においては当然「アンジュルムの現役メンとOG」ということになりますが、広義においては「アンジュルムの現役メンとOGに関わっている人々すべて」です。この条件に合致するアンジュルム以外のハロメンやアンジュルムOG以外のアイドル、ミュージシャン、スタッフ、文化人、ハロヲタなどは全て「広義の大アンジュルム」に含まれます。

このうち「狭義のアンジュルム」については、その調理の仕方には工夫が要る、ということを上述しました。したがって作品内の登場人物のモデルとなるような形で取り上げるのは「狭義のアンジュルム」の中から一名だけに絞り、しかも彼女を重要ではあるが「主役」ではないポジションに置くことで「爆死」を何とか回避しようと考えております。ただ、先ほど作品としての「臨床実験」は成功した、とは申しましたが、その「彼女」は主役ではないがゆえに序盤の段階ではまだ顔見せ程度にしか出てきておらず、キャラとしてヴィヴィッドに動いてくれるかはまだ未知数、という不安はあります。ただ、自分が「彼女」だけを選んだのは、「彼女」が「アンジュルムの理念」を最も雄弁にメッセージとして発信し続けているメンバーであり(ここまで書けば「彼女」が誰なのかは想像がつくと思います)、ゆえに描写の焦点を「彼女」のキャラクターよりは彼女が発するメッセージに絞ることができるメンバーであることが、その不安を少しは解消してくれれば、ということは思っています。

一方、「彼女」以外の登場人物に関してはこの2年間「キャラとしてどう動くか?」という脳内オーディションを何度も繰り返し、登場人物の8割方は「広義の大アンジュルム」に範をとったキャスティングになっております。ただし、その大部分はあくまでキャラクターとしてのイメージを頂戴したに過ぎず、「彼女」のように物語内での登場人物の設定も現実と連動しているケースは、「彼女」以外にはごくわずかです(たとえば非アンジュルムのハロメンからキャラクターイメージを頂戴した登場人物が「アイドル」として登場することはありません)。「広義のアンジュルム」も「狭義のアンジュルム」と同じく魅力的なキャラの宝庫なのですが、まさにそれゆえに「狭義のアンジュルム」と同じく、現実をそのまま物語の中に置き換えることはなるべく避けた方がいい、と思った次第です。

⑵「セカイ系まよハロ」な内容

さて、まずは「セカイ系まよハロ」という謎ワードの説明から始めなければなりません(笑)

セカイ系」という言葉はご存知の方も多いかもしれませんが、ゼロ年代言論の中で出てきた言葉で、「登場人物同士の人間ドラマが、そのまま世界の命運を左右する出来事に繋がる」という設定の物語群を指します。古くは「新世紀エヴァンゲリオン」、新しくは「天気の子」に連なるもので、そのほとんどは現代あるいは近未来の日本社会に、SFないしロー・ファンタジー要素が挿入される形になることが多い。いわゆる「劇場版アニメになりやすい」物語群と言えるでしょう。比較的使い勝手が良い物語フォーマットである上に、劇中での登場人物の一挙手一投足が制作時期に応じた一種の社会批評として機能しやすい点も面白く(たとえば旧劇エヴァと新劇エヴァにおける登場人物の描かれ方、動き方の違いなど)、自分はこのフォーマットに得意分野の世界史ないし日本史のガジェットを組み合わせた作品作りを好む、というか、作家としてはほとんどそれしか能がありません。で、それはまあそうなのですが、「大アンジュルム小説」を書く場合にはそれも悪くはないのかな、と考えています。というのは「アンジュルムはどんな虚構よりも面白い現実である」という命題は、大アンジュルム世界で現実に進行している物語についても当てはまるわけで、これを凌駕する物語を駆動させるには、世界の命運を左右するような荒唐無稽で壮大な設定を用意するというのは一つの手ではないか、と思うからです。

そんなわけで今回自分が書き始めているのは、「コロナ禍の日本を舞台にした仏教的世界観のローファンタジー」です。あえて言えば「天気の子」のコロナ禍版、と言えるでしょう。ただ、「天気の子」のファンタジー要素が割とドメスティックで神道的なそれだったのに対し、今作は仏教なので、その背景にあるインド・イラン神話的な要素が入ってきます。また「セカイ系」に付きものの恋愛要素はほとんど入ってきません。自分があまりそれを好まない、というのもあるのですが、やはり「大アンジュルム小説」である以上は、世界の命運を左右するのは「天気の子」のような「ROMANTIC LOVE」ではなく、「BIG LOVE」でなければならない、ということです。

次に「まよハロ」についてです。これはこの記事を読むような人には説明不要かもしれませんが、念のために説明しておくと、現在テレビ東京で放映されている「真夜中にハロー!」という30分ドラマのことで、毎回人生に悩む登場人物がハロメンに出会いハロ曲を聴くことで、新たな人生を切り拓くための啓示をもらう、という筋立てになっています。

で、自分はこのドラマが始まるはるか以前から小説の構想を抱いていましたから、当然このドラマに影響を受けた、ということはないのですが、毎週「まよハロ!」を観ながら序章を書き進めるうちに、「これはやたらスケールのでかい『まよハロ!』になるな」と何だか可笑しくなってきました。というのは、「まよハロ!」の週替わり登場人物のようなことが今作の主人公にも起き、そしてそれは主人公の人生のみならず、世界の命運を左右するものにもなるからです。ただ、今作は「大アンジュルム小説」でありますから、そこで登場する楽曲群は「ハロ曲」ではなく、「(広義の)大アンジュルム楽曲群」ということになります。つまりあんな人やこんな人の楽曲も含まれることになり、というような話をしすぎると興を削ぐのでここらでやめておきますが、ここで重要なのは、今回のお話が「まよハロ!」展開になる、ということ、すなわち、物語の中で既存の楽曲群が重要な役割を果たす展開になる、という点です。そしてこのことが、自分が今作をWeb小説として世に出した方がよい、と思い立った大きな理由の一つです。

というのは、まずは何と言っても、活字メディアの中で「音楽」を題材にするのは本当に難しい、ということに尽きます。たとえば「まよハロ!」が短編小説として書かれたとしたら、ということを想像してみればわかると思います。おそらくあの話は映像作品としてしか成立し得ないでしょう。しかしWeb小説としてであれば、マルチメディア機能を活用することで、少しでも映像作品に近づけることが可能になります。その意味では、今回の作品の投稿プラットフォームはいわゆる小説投稿サイトではなく、このnoteは有力候補の一つです。マルチメディア機能が充実しているという点以外にもnoteの利点は色々とあるのですが(たとえば、ここでは詳述しませんが、既存曲を作中に盛り込むとなった時に、勘のいい人なら思い浮かぶであろうもう一つの大きな問題点を回避できるような使い方もnoteなら可能になります)、他のプラットフォームがよりメリットが大きいとなればそちらを利用することも大いにあり、この部分はまだ未確定です。

さて、そんなわけで現時点でお話しできること、お話しした方がいいだろうと思われることを書かせていただきました。今回はWeb小説とは言え、いつものいいかげんなnote記事とは違ってプロとしての仕事にしたいと自らに任じており、推敲に推敲を重ねたものにするつもりなので、すぐに、ということには参りませんが、できれば今年中にはお見せできればという心算であります。この記事を読んで興味を持っていただけた方は、楽しみにお待ちいただければ幸いに存じます。

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